安福寺(あんぷくじ)の現住職は2010年現在で22代目である。
安福寺の由緒は、奈良時代(710-794)に行基信仰が盛んであったときに河内国安福郡(かわちのくにあすかべぐん)(現大阪府柏原市)に行基菩薩を祀ったお寺が建てられたことによる。
その後、衰退していたが、領主多田左衛門尉光雲(たださえもんのじょうこううん)が親鸞上人の直弟子、下野国真岡(現栃木県真岡市)の慶西(きょうさい)に弟子入りし、2代目の住職となった。
安福寺の山号「光雲」は2代目の安福光雲からきているのは明確であるが、本山からいつ山号を授かったのかは不明である。
1500年頃、室原で寺が焼失してしまい、その寺を再興したいという村人の思いに応える形で安福寺6代目の法西が河内から室原に移ってきたという話もある。
また安福寺が門徒を連れて移動して来たのではなく、蓮如上人の教えに心酔した室原の人たちが安福寺の門徒となったと考えている。室原には安福という苗字の家系があるが、安福家が安福寺より先に室原に居住していたと伝えられている。
安福寺の縁起についてまとめられた資料が安福寺に伝わっているが、いつ誰によってまとめられたものかは不明である。
安福寺の起源については、他にも様々な説が挙げられた。
A氏によれば、大阪府堺市に安福(やすふく)村があり、そこから安福(やすふく)氏が室原に移住し、安福(あんぷく)寺を開いた。
B氏によると安福寺は室原の庄屋が連れてきたのではないかと考えている。
C氏によれば、応仁元年(1467)、武士階級の安福家が一族郎党を連れて河内から美濃の室原に移り、福源寺を安福家一族の菩提寺とし、郎党の手次ぎ寺として安福寺を開いた。また、一族に権威を示すためにそれまでの室原の神であった牛頭天王を脇へ移動させて、中心に熊野神社を置いたという意見もある。
安福寺(あんぷくじ)は滋賀県から移ってきたという意見もある。
安福寺は熊野神社との関係性は無い。
安福寺の現在の門徒の範囲は春日井や名古屋周辺までである。
先代の昭和40年代には京都や大阪に転居して行く人も多かったので、関西方面までも法要等に赴いていた。
室原地内の門徒の増減はほとんどない。室原の川地姓と田中姓の大半と、清水姓の一部が安福寺の門徒という特徴がある。
安福寺の相焼香正海寺である。
安福寺の報恩講は毎年12月最初の土曜日と日曜日に営まれる。先代住職の、昭和後半頃までは12月28日に執り行っていたが、現住職から日にちを変更した。報恩講の費用は門徒の志で賄っており、本堂に御懇志記帳が掲示される。
2010年現在の70歳前後の人は報恩講の前に3回程、助演講といわれる講があり、御経の練習をしている。
開祖親鸞聖人の直弟子、真岡の慶西(きょうさい)が親鸞聖人からいただいたという真影(聖人の像)がある。真影の元に親鸞聖人の祥月命日(しょうつきめいにち)である11月28日に報恩講を行うが、その報恩講は安福寺と安福家のみで行う独自の行事となっている。
安福寺では春と秋の永代経の他、大人向けの勉強会として門徒会を開催している。
安福寺には聖徳太子絵像の代わりになるナカイ幸福の像(ナカイの漢字不明)、愛称兵隊さんと呼ばれる木仏像があり、蘇我氏と物部氏の争いの中で、聖徳太子が物部氏を降伏させる願いを込めて作らせたという謂われがある。
また、関ヶ原の合戦の時に家康が、お勝山に陣を張った時に、南方に光るものが見え、尼崎城主であった戸田采女正(とだうねめのしょう)に調べに行かせたところ、後光を射していたのがこの木像だったという話もある。一時期、大垣城に持ち出されたこともあるが、その後、しばらくして寺に戻された。戦勝という縁起から戦場に赴く村人が祈願に来ていた。
安福寺の先代住職が昭和後半に本山から日曜学校の指定を受け、夏休み中は踊りを教えたり音楽を教えたりして、子どもたちの交流の場になっていた。その時の看板が蔵に残されている。現在では大垣市綾野町の浄徳寺で安福寺の住職が10月の第3土曜日に、「おまちうけ大会」として、お経や絵や習字の発表会を行っている。日曜学校や「お待ち受け大会」は10人程ではあるが地区の小学生と寺院との繋がりとして、大切なものと考えている。
頼母子講(たのもしこう)は今は行っていない。
安福寺、正海寺、西法寺(さいほうじ、垂井町栗原)の門徒が元文元年(1736)8月に石山合戦に加わった。この時の戦死者7名の供養と団結を誓って結成した十三日講を、現在も前出の3箇寺は行っている。

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現在福源寺は臨済宗妙心寺派、安福寺は真宗大谷派の寺である。 助演講とは、お経を習うための講である。 表示位置は安福寺を示している。