牧田川(まきたがわ)は大垣市から養老町と安八郡輪之内町を抜けて揖斐川に合流する一級河川である。
牧田川は昔は現在より西方を流れており、字将棋頭(しょうぎがしら)の西と養老山の山裾である桜井の間を通り、南の勢至方面へ流れていた。
牧田川は普段は水量が少ないが、少し上流で雨が降ると関ヶ原と多良(上石津町)の両方からの水流が合わさり、すぐに洪水を引き起こした。
永禄の頃(1560)から牧田川の堤防はあっただろうが、堤防の位置は現在よりも更に西の方であったと思う。水害によって、牧田川の川筋は次第に東に移ってきただろう。
養老町中の諏訪神社の参道に鳥居があったが永禄9年(1566)の大洪水の際に押し流され、宇田字中河原に埋没したという記録が養老郡志にある。また金屋の御井神社の社も流れたという記録がある。
橋爪の篠塚神社も字岡ヶ鼻の神明神社の位置にあったが、大洪水で現在の神社の位置にご神体が流れ着いたため、そこに篠塚神社を再建したと冊子「橋爪の歴史」に掲載されている。
慶長5年(1600)の水害では、多岐神社の鳥居や大墳城の城壁なども牧田川の氾濫により流されて付近一帯が洪水の被害を受けた。
天正13年(1585)の天正地震で、養老山脈が崩れてその土砂が牧田川を覆ったという説や、地震によって牧田川の川底が揺り上がったという説もあり、これについては元禄時代(1688-1703)の書物を根拠としているようであるが、どちらの説も物的な証拠は見つかっていない。
現在のミズノ養老工場や高田中学校の敷地、三神町の南側をはしる道路などは河川敷であった。

Posted in その他, 信仰, 多芸東部, 日吉, 災害, 経済, 養老 | Tagged , , | Leave a comment
大地震のあった翌年の天正14年(1586)、豪雨により牧田川は大洪水をもたらした。前年の大地震で生じた養老山脈の土砂が牧田川を埋めて、水流をせき止めた為である。表示位置は養老町中の諏訪神社を示している。