高田の表通りは、変わっていないようで、結構変わっている。
今の大晃堂(高田33)の前に、戦前、土屋八十郎氏が玉泉堂より大きくて歴史的にも古い酒屋、土屋八十郎商店(代表者田中未松氏)をやっていた。昭和26年(1951)、その場所に高田劇場が出来た。学校の子どもを連れて、「ノンちゃん雲に乗る」を観に行ったのを覚えている。
昭和初期は、都屋商店(ガラス店)(既に廃業)の場所は、蘇原銀行であった。
日用雑貨のなべ又商店(高田144)の通りの角に、小笠原銀行があった。
今、都屋商店の倉庫になっている土蔵(高田3875-31)が、煙草の専売局であった。そこから、各地区の煙草屋へ配って歩いていた。倉庫の中には、たばこの入った木の箱が積んであり、かくれんぼなどをして遊んだ。その頃、昭和始めの大恐慌があり、この煙草屋は破産した。景陽寺の近くの亀屋(味噌、塩、油醸造業)の頭取の倅の兄が度量衡(計測器の販売)をしていたが、同じく恐慌の影響でできた負債を処理するために、店を売って、鎌倉屋(仏壇屋、押越880)の前に引っ越しをした。
高田西町に佐藤という下駄屋があった。大正11年(1922)生まれのご子息が戦死されたため、妹さんの所へ一之瀬(大垣市上石津町)の方が養子に入ったが、後に店舗を一之瀬に移したので、下駄屋の跡地は、大橋銀行となった。その後、大橋銀行がなくなり、割烹の千鳥屋が城前町から移ってきた。
昔の郵便局の角に公衆便所があり、学校帰りに良く使った。
高田は人の往来が多く、芸者衆もたくさんいた。
高田は消費地だったので何かあると、高田へ出てきて、一杯飲んで、芸者衆をあげてどんちゃんやった。お客さんは、近場が多く、遠方から来ていたことはなかった。
高田町には2軒のビリヤード場(玉突き)があった。
バブル期は、高田の町は少しも変わらないと言われたが、昭和初期の頃は高田の人の出入りは多かった。最近は跡継ぎがいないので、商店街でシャッターが閉まっている店もある。戦争の影響が一つの曲がり角であった。
昭和の始め頃は今よりも雪が結構降った。道を歩くのにも苦労をした。
柏渕家の前の柵(犬矢来)は、以前は置いている家もあったが、今残っているのはここだけではないだろうか。津田家(高田144)も、以前の家には犬矢来を置いていたが、家を建て直してからは無くしてしまった。
昭和初期は、自動車は極めて珍しいものだった。ガソリンの臭いも良いにおいに感じた。高田の城前町通りに、昔、喜楽という料理屋があり、その南側の角に、野寺氏が沢田から出てきて、タクシーをしていた。それが高田の中では、唯一の車であった。
専念寺前の現在空き地になっている所で犬飼氏の家が人力車をやっていた。高田の駅には、今のタクシーのように、人力車が常駐していた。高田の芸者が養老公園へ行くのも人力車であったし、A氏のお母様が嫁いで来た時も人力車を使った。
現在、高田幼稚園の前の公園になっている所に、1、2年生が入っていた高田小学校の校舎を移動させて、そこを戦時中は青年学校の校舎としていた。
後にその校舎を壊して高田小学校の講堂を造った。正月には、高田の名士が集まり、新年互礼会をその講堂で行った。その時は、芸者を大勢呼んだ。食べ物は持ち込みの、立食パーティーであった。紋付羽織袴姿が多かった。高田は、遊ぶところが多く、養老の他の地区から見れば都会であった。
戦後、南濃保健所、南濃税務署ができた。官庁が今の産業文化会館から南にずっと並んでいた。今の老人福祉センターの場所に郡役所があり、それが廃止されて地方事務局になった。官公庁に勤める人が多かったので、収入もよく、戦後暫くは、高田の町も賑わった。
福祉センターの前にあったレコード店(高田東町)は、昔は料理屋であった。
現在の高田西町の車山(やま)倉の向かい側に、明治43年(1910)に家畜市場が設立され、牛の競り市をやった。
昭和の始め頃には、景陽寺のすぐ東側に湧水があった。その水は高田小学校の校舎の下を潜らせて校内にあった瓢箪型の池まで引かれ、池には鯉などの淡水魚が泳いでいた。現在、小学校の門柱が立っている場所である。
地方事務局は今でいう西濃にある事務所のようなもので、海津と養老の管轄であった。牛の競り市については、「たか田」(197頁)参照。表示位置は高田商店街の中心あたりを示している。