タギゾウくんの養老ノート・・・養老町で見聞きした様々な情報を、テキスト・画像・位置を基に掲載しています。

分類 | タギゾウくんの養老ノート | Page 83
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分類

船附の暮らし

船附では寛文4年(1664)頃に安田弥兵衛(やすだ やへえ)が船問屋として栄えた。 大垣市、船町の安田絹氏の実家は、濃尾震災にも耐えた。 絹氏が嫁入りした時、昭和30年代は、嫁入り姿のまま船附の尊光寺、法覚寺の2箇寺へお詣りに行った。 絹氏は大垣の八幡神 [...]

船附村の水運

中世より前は、桑名から揖斐川を通り、潮の上がりに乗って下笠の市場千軒(田村の東側)まで木材などを運んできていた。やがて徐々に川底が浅くなり、江戸末期には舟運が不可能になった。 昭和初期、大垣市の船町から船で潮干狩りに行くのがとても楽しみだった。船附湊のあたり [...]

船附村の生業

船附村には65種の職業があり、劇場もあった。 船附村の名産は川魚である。中山で川魚や鮒味噌など、川魚の加工品を販売していたが、今は廃業してしまっている。 他には宿と料理屋を営んでいた周吉(しゅうきち)や、料理屋鮒源(ふなげん)などがあった。 河川改修前の [...]

寺社の移転

堤防改修時に寺社の敷地も移転の対象になったが、国交省が寺社の移転に関わりたくないと言う考えがあったため寺社の移転は控えていた。その後役人の方針が変わってから根古地、大野(大野稲荷神社、大野八幡神社)、釜段の西と東、輪之内などの寺社が移転していった。

大野村の生業

大野では、昭和28年頃までは岐阜から鵜飼の船が2~3隻揖斐川を下ってきて牧田川を上り、大野村の中間東の牧田川右岸堤で、鵜を休憩させていた。その時に鵜の口から飲んだ魚を鵜匠が吐き出させる場面が非常に珍しかった事が未だに深い印象に残っている。毎年一回は来て、休憩が [...]