大野では、昭和28年頃までは岐阜から鵜飼の船が2~3隻揖斐川を下ってきて牧田川を上り、大野村の中間東の牧田川右岸堤で、鵜を休憩させていた。その時に鵜の口から飲んだ魚を鵜匠が吐き出させる場面が非常に珍しかった事が未だに深い印象に残っている。毎年一回は来て、休憩が終わると来た時の逆のコースで帰っていった。
麦・小麦・菜種・れんげの種の収穫に続いて田植えの時期になるので、休む間も寝る間もないほどだった。現在の様にトラクターや田植機があるのではなく、当時は牛か鍬で苗代を作り、田植は自分の手で一株づつ植えた。
昔は、子供を祖父母の家に預けて10時と3時に母親が乳を飲ませに行ったり、田んぼへ子供を連れて行って遊ばせたり、背中におんぶしたりで、農作業をしながらの子育てだった。
牧田川と水門川の間に桑畑があった。かつては個人のものだったが伊勢湾台風後に牧田川改修の為の用地として買い上げられた。
繭を作らなかった失敗分の蚕を川に捨てた所、捨てられた蚕が川岸の桑の木に登って繭を作っていた。
秋になると桑の葉をダチ切という鋏で摘むのが難しかった。
大野村は養蚕地域であった。繭の売買について、業者とのやり取りは明治-大正時代(1868-1926)位までは、大野の渋谷代次郎氏に世話になった。昭和になってからは息子の渋谷文雄氏と勢至の野村弘氏の二人に世話になった。
蚕は小さな卵から幼虫になる。その時は桑の葉を細かく切り、1日に7-8回食べさせる。この時期を1令(れい)と言う。5日程後に2令、更に3令、4令と育つ。4令後には桑の葉は切らなくても、そのままで蚕が1日に5-7回食べてくれるが、蚕も大きくなり沢山食べるので桑の葉を摘みに行くのに大忙しだった。
桑の葉の摘み方は、蚕の小さいころは葉の軸の無い様に人差指に鋏を付けて摘むが、始めはなかなかうまく出来ない。
蚕が4令になる直前、繭になる手前になると、蚕は透き通って美しい虫になる。それを、手で拾って150-200匹程ずつを別の棚に入れておくと口から絹糸を出して繭になる。その期間中、仏様の前を少しだけあけて、お仏飯を供え、自分は蚕の棚の下でごろ寝をした日がよくあった。住宅の全部を養蚕の場所とした。
繭を撮る回数は年間3回で、春蚕(はるがいこ)・夏蚕(なつがいこ)・晩秋蚕(ばんしゅうがいこ)と言った。
蚕の小さい時期だけ、春蚕と晩秋蚕は室内の温度調整が一番大切であった。現在の様に電気やガスはなく、当時は木炭・練炭・もみ殻を半焼きにしたものを、いろりに入れて温度を上げた。
蚕の小さい時の温度調整が悪いと大きくなってから病気が出て、繭にならないため、一番注意が必要だった。早く病気がわかればまだ良いが、蚕は桑の葉を食べるだけ食べて大きくなって繭になる頃に病気がわかるので、牧田川に蚕を捨てる人もよくいた。
その時代は今と異なり、別のアルバイト仕事などをして働く所も無く、蚕を捨てることになった人の中には半年間は貧乏暮らしの人もいた。
ポンポン蒸気船で桑名までしじみを取りに行った。また、桑名からは下肥(しもごえ)を運んできて肥料にした。途中で50リットルを100リットルに、水で薄めたのがばれたこともある。

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表示位置は鵜を休憩させていた場所を示している。