タギゾウくんの養老ノート・・・養老町で見聞きした様々な情報を、テキスト・画像・位置を基に掲載しています。

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その他

軍隊からの復員後の生活

A氏は戦前に教員をしていた。出兵し、戦争が終わって帰って来たのは終戦の翌年、昭和21年(1946)である。復員後、教員に復職する気が起きず、半年間は学校へ行かなかった。 帰ってきた時、人間はこんなに変わるものかと思った。行く時は手を振って万歳三唱だったが、帰 [...]

県視学

県の指導主事が、主だった学校を回って学校評価をする、県視学という役職があった。 今の指導部は、教育指導のみで管理部門からは外れているが、当時の県視学は指導と管理両方の権限を持っており、大きな権力を持っていた。 県視学の評価によって、その学校の評価が左右され [...]

岩道の住民と寺社

広幡地区の東岩道のあたりには、地元のお寺である常性寺(じょうせいじ)の門徒の他、西福寺(さいふくじ)、大垣市野口町の聚楽寺(じゅらくじ)の門徒がいる。 岩道には全部で4軒ほど、浄土真宗から日蓮宗へ宗派を変えた家があった。 他所門徒が多い理由は分からない。常 [...]

昭和前半の大人の遊び

昭和30年代は、高田では昔の女郎遊びはなくなった。 大垣の水門川の横で、女性が屋台を出しており、A氏はそこへよく行った。養老には屋台はなかったが、高田に一杯飲み屋があった。 養老公園周辺では、一杯飲み屋はなかったが、旅館での宴会はよくやっていた。 高田に [...]

烏江の渡船場

A氏のご祖父が大垣へ勉強に通っていた明治の半ば頃、大垣へ行くには、金草川を渡るのに作造橋(さくぞうばし)を通って烏江へ行った。烏江駅のそばの渡船場から、牧田川を大垣側へ渡船で渡り、歩いて学校に行った。 A氏が子どもの頃、昭和10年代も、ご祖母の在所である大垣 [...]