押越の生業
押越の生業は、ほとんどが農業であった。押越の北側にある新道町はサラリーマンが多かった。新道町は「町内(まちうち)」と呼んでいた。 養蚕は昭和30年(1955)位まで、長いこと行っていた。トラックに積んで、繭を恵那まで持って行った。石畑や明徳は桑畑ばかりであっ [...]
タギゾウくんの養老ノート・・・養老町で見聞きした様々な情報を、テキスト・画像・位置を基に掲載しています。
笠郷
押越の生業は、ほとんどが農業であった。押越の北側にある新道町はサラリーマンが多かった。新道町は「町内(まちうち)」と呼んでいた。 養蚕は昭和30年(1955)位まで、長いこと行っていた。トラックに積んで、繭を恵那まで持って行った。石畑や明徳は桑畑ばかりであっ [...]
高田地区字押越在住のA氏が子どもの時、昭和20年代から昭和30年代の頃は朝の登校前に一遊びして、それから10人くらいまとまって登校していた。幼稚園位から、高等小学校の子に付いて歩き、大きい子の遊びを覚えた。 よく押越の子どもが固まって一緒にいたので、他地域の [...]
あほ除(よげ)は明暦2(1656)年に築かれた。 押越村(おしこしむら)から下笠村(しもがさむら)にかけては幕府領、尾張藩領、高須藩領などが入り組む土地であった。そのため、あほ除は尾張藩と高須藩の立ち合いのもと、口ヶ島(くちがしま)、西岩道、岩道、下笠、中島 [...]
笠郷の下笠輪中や広幡の飯ノ木輪中には株井戸制度(かぶいどせいど)があった。株井戸は水脈によって水量が異なる。岩道、中島は水がよく出る。和田ではあまり出ないのでかなり深く掘る。それでも泥まじりのそぶ水で、今飲んだら下痢をしそうな水質であった。場所によっては、8間 [...]
牧田川の改修工事の日銭稼ぎは、百姓の青年達が行っていた。昔は、百姓の若者の就職先はなかった。月給で現金収入がある人は公務員等の人達だけであった。これ以外では、地主の家に手伝いに行って、5銭、10銭を稼いだ。