高田地区字押越在住のA氏が子どもの時、昭和20年代から昭和30年代の頃は朝の登校前に一遊びして、それから10人くらいまとまって登校していた。幼稚園位から、高等小学校の子に付いて歩き、大きい子の遊びを覚えた。
よく押越の子どもが固まって一緒にいたので、他地域の人からは「押越連中」と呼ばれていた。それだけ押越の地域は繋がりがあり、仲が良かったのではないだろうか。A氏は船附に親戚が居たため、押越から船附の八幡神社の祭りに、子供たちだけで連なって歩いて行ったこともある。
当時の押越には大百姓は少なく、所有する土地の平均は8~9反位で、1町はなかった。だが、全て手作業の二毛作だったので、お百姓さんをしている大人たちは常に忙しく、子どもの面倒を見る暇がなかった。親の代わりに上の子が下の子をおんぶして面倒を見ながら、大きい子も小さい子も一緒になって遊んでいた。
小学校高学年からは農繁期休みがあり、田んぼの手伝いが大変だった。大きい子の大半は大人と同じ仕事をしている子も多かった。
押越字流(ながれ)地内に大池という池があった。40~50m×25mの大きさで、手を広げたような形をしていた。近くには貯木場や水防倉庫があった。周囲には大小色々な池があり、丸太がつけてあった、大池には、久保寺材木の貯木場があったと思うが、丸太はあまり置いていなかったようである。夏は、大池で泳いで遊んでいた。
大池の周りの複数の池は、押越の何人かの人が所有権を持っていた。
今の石畑川や金草川でも泳いで遊んだ。石畑川の所には水門があり、そこから飛び込んで遊んだ。
押越から大池までは近かったが、船附まで金草川沿いに堤防を歩いて遊びに行くこともあった。当時は自転車がなかったので、どこへ行くにも歩きであった。
大池で遊ぶ子供は、押越の子供が多かったが、下高田の子供も来ていた。校区が同じだった高田とは、顔見知りだったのであまり喧嘩はなかった。
校区が違う養老地区の子とは、集団で喧嘩をした。高田地区の字町南の南北の道、通称「新道」で、石の投げ合いなどをした。
冬は、マントを被って、雪合戦をした。
高田地区の押越と養老地区は隣接しているので、ちょうど境あたりの押越字村前で喧嘩をしたこともある。
押越は、現在230軒位あるが、昭和20年代は120軒位であった。子供は一家に平均3人位いたので、子供の人数は多かった。
押越の子どもたちの行動範囲は広かった。南宮山まで2里(約8km)の距離を歩いて正月参りに行った。日常的にも、京ヶ脇までアケビを採りに行ったり、牧田川にあるような竹では釣竿として使えないので、京ヶ脇の奥の方まで釣り竿に使うチンチクリン竹を盗みに行ったりした。チンチクリン竹は根っこが持ちやすいようになっていた。釣り竿も自分たちで手間をかけて作った。それも遊びの一つで、昔は全てが手作りであった。京ヶ脇までは、今のような良い道ではなく、荷車が通れる道が一本あっただけであった。チンチクリン竹があった場所は、今は様子が変ってしまっているので分からない。
勢至の少し奥にある貝殻山で、イタドリ、ヤマグミ、アケビなどを採った。
A氏が中学校の頃の写真を見ると、皆でカワシマ写真館で煙草を吸っていた。仲間の中で、そこから悪の道に走る人もいた。今なら考えられないことであるが、中学を卒業した翌夏にクラス会をした時、同級生や先生と合成酒を飲んで酔っ払ってしまった。15歳から先生と一緒に酒を飲んでいたのである。当時はなかなか良い酒が無かったので合成酒が多かったが、飲むと頭が痛くなった。しかし、合成酒で体が悪くなった人はいなかった。

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養老新道は、押越から南へ抜けていく道、大正天皇が通った道である。表示位置は大池のあった辺りを示している。