高田

朝日新聞の記事中に、小畑村国民学校と青年学校(高等科の前身)の勤労奉仕で、祖父江輪中堤の天端(てんば、堤防の一番高い所)の開墾をしている写真がある。戦中は大豆などを栽培して食糧増産を図る為に、土手の堤防の荒地を授業後に鍬鋤を振るって開墾した。
写真を見ると祖
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昭和30年代は、高田では昔の女郎遊びはなくなった。
大垣の水門川の横で、女性が屋台を出しており、A氏はそこへよく行った。養老には屋台はなかったが、高田に一杯飲み屋があった。
養老公園周辺では、一杯飲み屋はなかったが、旅館での宴会はよくやっていた。
高田に
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作造橋(さくぞうばし)は、九里半街道の牧田川道で、金草川に架かっている。
作造橋の名前の由来は、不明である。想像であるが、有力者の作造さんという人が寄付をして作らせたのではないだろうかと思う。

A氏のご祖父が大垣へ勉強に通っていた明治の半ば頃、大垣へ行くには、金草川を渡るのに作造橋(さくぞうばし)を通って烏江へ行った。烏江駅のそばの渡船場から、牧田川を大垣側へ渡船で渡り、歩いて学校に行った。
A氏が子どもの頃、昭和10年代も、ご祖母の在所である大垣
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烏江のあたりに女郎屋や飲み屋があった。2012年現在で80代前半くらいまでの岩道の人は遊びに行ったかもしれない。
岩道のあたりで、遊んで身上を潰した人は聞いたことがない。女郎屋といっても御殿女中のような構えではなく、田舎の小奇麗な家の中に、女性が2、3人いて
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