経済

牧田川の改修工事の日銭稼ぎは、百姓の青年達が行っていた。昔は、百姓の若者の就職先はなかった。月給で現金収入がある人は公務員等の人達だけであった。これ以外では、地主の家に手伝いに行って、5銭、10銭を稼いだ。

昭和39年(1964)頃、養老北小学校と養老南小学校が統合に関して昭和30年代から喧嘩をしていたが、いつまでたってもまとまらなかった。養老南小学校の代表者、山下氏と氏原氏は、二人とも強引であった。
昭和40年(1965)頃、PTA会長をしていた半田登喜代氏を
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1950年代、A氏は子どもが小さい頃、象鼻山によく遊びに行った。草だらけの細い道を走って登った。松茸は、A氏が探してもちっとも見つからなかった。皆が採った後だったのか、場所が違っていたのかもしれない。A氏のおばさんや子どもたちは小さいのを採って来た。象鼻山の松
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昭和24年(1949)に養老へ来た時にびっくりしたのは、トラコーマ(伝染性の結膜炎)患者が非常に多かったことである。名古屋ではトラコーマはなく、大学に一人患者がいると珍しかった。また、養老では斜視、弱視、視力の悪い子が多かった。大学でその話をしたら、驚かれ、論
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昭和24年、名古屋大学の眼科教室の学生であった半田登喜代氏は、4月に長女出産の予定で、大学を休んでいた。1月は、半田氏のご主人が各務原にいたので、そこで毎日靴下のつぎをするなどしていた。2月に配給のお米を取りに行き、1俵弱を担いで帰る時に破水してしまった。どん
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