岡ヶ鼻の辺りに軍人畑があり、畑の中に用水が通っていた。軍人畑は現名神S.A.の辺りにもあり、サツマイモを栽培していた。なぜ軍人畑と言われていたかは分からない。
宇田の青年団は西勝寺が総元であった。社務所などを借りて会合を開いていたが、畳と板の間の二部屋があり新人は板の間にしか座れない等上下関係が厳しかった。追弔会(ついちょうえ)や敬老の日には二斗釜で湯立てのご飯を炊いたり、ごちそうを作るのが大変だった。
豊の氏神である吉田神社は総本宮を京都に持つが、祭礼などは豊周辺の神社と同様に行われる。京都の吉田神社への代参はしていない。吉田神社の秋の祭礼では1970年頃まで手筒花火を打ち上げていた。吉田神社には神明神社が合祀されており、また天満神社が東に隣接している。本来、祭りは天満神社が8月25日、神明神社が9月3日、吉田神社が10月5日に行われていた。2010年現在は各社の祭りをまとめ、10月の第1日曜日に行われている。平成15年頃から、伊勢参り・伊勢迎え・新嘗祭を廃止した。近年は祭に人の集まりが悪く、2009年からメダカすくい等企画し子供が集まるようになった。
吉田神社の祭礼のビデオが残っているかもしれない。
現在の宮司は2007年から北野の森川氏である。その前は揖斐川町の三輪氏、さらにその前は高田の大橋氏と変わってきている。
総代順送りの書類は、慶安3年(1650)の「ヤロカの大水」の際に流失している。
吉田神社の位置は変わっていない。天満神社はもとは北野神社の北側から遷座された。
吉田神社の運営費として、神社費1万円を各戸から徴収している。また、現在でも吉田神社西の竹やぶの竹を売って、神社の運営に充てている。昭和61年(1986)、欅の神木を伐採し売ったところ400万円ほどになった。その売上は吉田神社の再建費用に充てられた。吉田神社再建の際には、餅まきなどを行い盛大に祝った。
吉田神社境内ではポンプで地下水を汲み上げ、手を清めるように使われている。
昭和47年(1972)から行われた土地改良の際に石仏、五輪塔が吉田神社の西北西のあたりで見つかった。現在は豊の墓地の一角に安置してある。