飯積山光敬寺(いいづみさん こうきょうじ)といい、村の名前が山号に付いている寺は珍しいといわれるが、寺の由緒は不明である。
光敬寺の総代はほぼ各家で継承している。年行司は東組と西組で交代制としている。昔は御代本(おだいほん)を寺から各家に迎え、家で葬儀を行ったが、現在は清華園や光敬寺で行うのでほとんど行われない。半門徒は3軒のみである。
光敬寺は元天台宗だったが教如(1558‐1614)の頃に浄土真宗に改宗した。
文久年間頃(1861年~1863年)からの言い伝えとして、蛇頭骨伝説が寺に残っている。蛇頭骨伝説とは、親鸞と弟子が川に身投げをした挙句大蛇に変身してしまった女人を弔った所、大蛇が天女に変わって空にのぼっていった、というものである。その大蛇の頭骨といわれる骨が宝物として光敬寺に伝わっている。
光敬寺の紋は菊であるが、天皇家と同じでは畏れ多いという配慮から菊の端に葉をつけている。
直江の春日神社は、元々南直江の西光寺(さいこうじ、直江字中瀬古)近くに建っていた。直江の八幡神社(直江字経堂)も、元は南直江に建っていたが、昭和26年に2社同時に遷座して現在地に合祀した。春日神社は全国でおよそ3000社あるが奈良の春日大社が本社であり、直江の春日神社も奈良から祭神を勧請している。春日神社は直江の氏神である。
以前の祭事の主だったものは、1月13日粥占い、1月14日左義長、武佐祭(開催日不明)、2月29日全体の小祭、3月10日記念祭、4月18日秋葉神社、8月8日御鍬神社、9月1日燈明、9月25日八幡神社、10月10日春日神社、神明神社(開催日不明)、小谷山感謝祭(秋・開催日詳細不明)、12月15日新嘗祭などが行われていた。現在はまとめて行ったり、省略されたりしているものもある。また、日にちも日曜または祝日にずらしていることが多い。
2010年現在でも行っている行事は、1月の第2日曜日に粥占いと左義長、1月の第4日曜日に武佐祭、3月の第2日曜日に記念祭、4月29日昭和の日に秋葉、御鍬、八幡、神明の4祭、9月1日に燈明神社祭、9月の第1日曜日に小谷山(おたにやま)感謝祭、10月体育の日の前日に春日神社大祭、12月23日天皇誕生日に新嘗祭を起源とする感謝祭である。
10月の春日神社の大祭は本組、中組、東組の各組ごとに太鼓があり、先頭に組の総代が提灯を持って神社まで歩いた。神社に入る組順も明治時代までは決まっていたらしいが、現在は特に決まりはない。春日神社遷座の時には、伊勢神楽の奉納があった。この時の記念誌として「神社移転遷宮記念誌」がある。
直江の春日神社の秋の祭りに昭和40年頃まで時々伊勢神楽を招待していた。
神社には太鼓が二つあり、昭和28年ほどまでは境内で太鼓に合わせて輪になって踊った。太鼓の名手が3~4人はいたが、現在はたたく人がいない為に太鼓は置いておくだけである。
明治生れぐらいの人が中心になって太鼓を打っているテープが残っており、早崎誠氏はテープで太鼓を覚えた。
江戸時代に杉野家が笠松代官所に提出した、春日神社(直江)を北直江に移転したい旨の嘆願書がある。この時は嘆願を却下され、戦後になってから春日神社(直江)の移転は実現した。
養老町上多度小倉には高札場跡がある。未調査のため、詳細は不明である。