御神体を見せてほしいと言われることもあるが、神職としては御神体が何なのかを知らなければいけないが、人に見せるものではないと考えている。
神社本庁が奨励する祝詞の文体様式は全て統一されている。研究者等が書いた文例集を現神官が利用している。厄除け、地鎮祭、七五三等個人の祭りの祝詞は自作する。祝詞の内容は神社の名前、神様を迎え、誰が何を行うので宜しくお願いします、といった内容になる。家、井戸、伐採、厄除け、七五三、初宮参りなどの神事の際、迎える神様は対象物によって違う。ちなみに排水機では農耕神を迎える。地鎮祭などは、神官が祝詞を考えるが、神社の祭礼の祝詞は神社庁により様式が決まっている。神社に古くから伝わっている祝詞や祭礼があればそれを優先するようにと神社庁からは言われている。
神様が違っていても奏上する祝詞の内容は同じである。神様の名前部分だけを差し替える。
直江の元庄屋である杉野家では明治以降に駕籠の使用を許可された。他にも4軒だけ駕籠の使用許可が下りた家がある。
南直江から五日市あたりまでの牧田川跡地は杉野家の土地であり、戦時中には飛行機の滑走路として使用されていた。杉野家の屋号は大柳(おおやなぎ)で、近所の人には大柳の屋号だけで通じていた。
現在の宇田の北、御霊神社を中心とした安久の辺りは、昔は金屋の金入(かないり)という地名だった。そこに鋳物の生産地があったが、関ヶ原の合戦の時には既に金屋の鋳物師たちは、この地にはいなかった。なお、名神高速工事の際に鉄滓が出たのはこの安久の付近である。
谷汲山華厳寺や赤坂の呑龍大士(どんりゅうたいし)を祀る浄土宗天清院(てんせいいん)には金屋で作った鰐口や鐘が残されているが、養老町内には残されていない。大和→志津→直江、と刀鍛冶は流れて来たのではないかと思う。直江に40数人の鍛冶屋が鎌倉~室町(1192‐1573)の間に住んでいた。
刀を作るには、鉄・木・水・砂鉄・砂が必要だが、どこから入手していたのかはっきりとしたことは不明である。刀を精錬する為には、薪炭では火力が弱いと思われるので、船で小畑川の水運により烏江から直江まで燃料を運んだのではないかと考えている。
直江の小字村下に鍛錬所があり、同じく小字山鳥に直江の刀鍛冶がいたようである。鍛冶屋の環境を整える為の有力者がいたのではないかと考えている。また、素材の鉄は出雲から僧侶が運び、勢至で作ったものではないかと思う。そこから金屋の鋳物師からスタートし、関に渡って刀鍛冶になっていったと考えている。