現在の宇田の北、御霊神社を中心とした安久の辺りは、昔は金屋の金入(かないり)という地名だった。そこに鋳物の生産地があったが、関ヶ原の合戦の時には既に金屋の鋳物師たちは、この地にはいなかった。なお、名神高速工事の際に鉄滓が出たのはこの安久の付近である。
谷汲山華厳寺や赤坂の呑龍大士(どんりゅうたいし)を祀る浄土宗天清院(てんせいいん)には金屋で作った鰐口や鐘が残されているが、養老町内には残されていない。大和→志津→直江、と刀鍛冶は流れて来たのではないかと思う。直江に40数人の鍛冶屋が鎌倉~室町(1192‐1573)の間に住んでいた。
刀を作るには、鉄・木・水・砂鉄・砂が必要だが、どこから入手していたのかはっきりとしたことは不明である。刀を精錬する為には、薪炭では火力が弱いと思われるので、船で小畑川の水運により烏江から直江まで燃料を運んだのではないかと考えている。
直江の小字村下に鍛錬所があり、同じく小字山鳥に直江の刀鍛冶がいたようである。鍛冶屋の環境を整える為の有力者がいたのではないかと考えている。また、素材の鉄は出雲から僧侶が運び、勢至で作ったものではないかと思う。そこから金屋の鋳物師からスタートし、関に渡って刀鍛冶になっていったと考えている。
表示位置は鉄滓が出た辺りを示している。