田では伊勢代参と秋葉代参を行っている。どちらも集落からくじで選ばれた4人が参拝する。日程については特に決まってはおらず、選ばれた人達で相談して総会の日までに行く。伊勢迎えのような儀式は特にない。参拝して受けてきたお札は一枚を神明神社に奉納し、他は各戸に配る。
秋に脱穀していた籾が盗まれたのを契機に、盗難防止のために南宮さんをお参りするようになった。昭和後期頃までは田んぼの中に竹を4本立て、杉の木で小さな祠を作って南宮さんを祀っていたが、集落内で火災が多かったため秋葉神社も祀るようになった。
今は、神明神社の右側に秋葉神社が合祀されている。
北小倉では笛の練習用に、10月の八幡神社の本祭りに吹く曲を譜面に起こしてある。9月に入ったら笛の保存会のメンバーが練習を始める。メンバーに年齢制限は無く、後継者確保のために消防団に入る人には必ず声をかけている。伊勢音頭は町内で声に自信のある人が担当する。替え歌にして歌うこともあるが、「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城で持つ」の辺りはいつも同じである。
南小倉では昔は笛などは1対1で見よう見まねで覚えたが、今から30年ほど前に、演奏している様子を8mmで撮影して笛の譜面を作った。盆過ぎから予定を組んで笛の練習を始める。若宮からも笛を教えて欲しいと言ってきたことがある。笛は今尾(海津市平田町)の天野屋という店で4500円で購入した。笛は4曲、太鼓は2曲あり、その内1曲はデンガラカシと同じ曲である。八島崩し(ヤシマクズシ)という、一人で途中まで吹く曲がある。
養老町上多度鷲巣には鷲巣八幡神社がある。未調査のため、詳細は不明である。
小倉山の峰の一つに、鷲巣(わしのす)の飛び地で、薬師山と呼ばれる場所がある。昔薬師山には小倉山光明寺というお寺が建てられていた。養老郡志(p.562)によれば、文禄元年(1592)に薬師山の光明寺から薬師如来を持ち出し、鷲巣村に堂宇を建てて安置した。この薬師如来については次のような伝説がある。
元亀年間(1570~1573)に織田信長によって光明寺を含む多芸七坊が焼かれた。一人のお坊さんが光明寺からかろうじてご本尊を持ち出し、車に乗せて逃げ出した。小倉と鷲巣の境まで来た所、小倉へ行こうとすると車輪がギリギリと音を立てて動かなくなり、鷲巣へ向かうと軽く動き出した。「これは、ご本尊が鷲巣に行きたいと仰っているのであろう」ということで、薬師如来は鷲巣に運ばれることになった。この話に出てくる小倉と鷲巣の境は、今でも「ギリギリ跡」と地元で呼ばれている。
昭和18(1943)年に薬師山光明寺という名前になったが、それまでは薬師堂または「おやくっさん(お薬師さん)」と言っていた。地元には現在も光明寺を薬師寺と呼ぶ人もいる。地元には現在も光明寺を薬師寺と呼ぶ人もいる。
明治の中頃に、薬師山の入会権を鷲巣村で保有するために登記登録・所有権移転を行っていたが、昭和に入ってから光明寺と住民との間で入会権をめぐって争いになった。訴訟の経緯は白山神社境内の中島嘉樹氏顕彰碑に説明されている。
2012年現在光明寺(薬師堂)の管理は鷲巣の88軒が共同で担当しているが、行事は特に行ってない。
1993年頃に光明寺の屋根が抜けてしまい、ブルーシートが張ってあった。屋根は2010年頃に区の有志で費用を出しあって直した。基本的に光明寺に区の費用は使わない。
2013年現在、光明寺には信者もご住職もおらず、誰もお世話をしようとしないので維持管理に困っており、結局区でお守りをしている。
養老町上多度鷲巣には瓢箪神社がある。未調査のため、詳細は不明である。