小倉山の峰の一つに、鷲巣(わしのす)の飛び地で、薬師山と呼ばれる場所がある。昔薬師山には小倉山光明寺というお寺が建てられていた。養老郡志(p.562)によれば、文禄元年(1592)に薬師山の光明寺から薬師如来を持ち出し、鷲巣村に堂宇を建てて安置した。この薬師如来については次のような伝説がある。
元亀年間(1570~1573)に織田信長によって光明寺を含む多芸七坊が焼かれた。一人のお坊さんが光明寺からかろうじてご本尊を持ち出し、車に乗せて逃げ出した。小倉と鷲巣の境まで来た所、小倉へ行こうとすると車輪がギリギリと音を立てて動かなくなり、鷲巣へ向かうと軽く動き出した。「これは、ご本尊が鷲巣に行きたいと仰っているのであろう」ということで、薬師如来は鷲巣に運ばれることになった。この話に出てくる小倉と鷲巣の境は、今でも「ギリギリ跡」と地元で呼ばれている。
昭和18(1943)年に薬師山光明寺という名前になったが、それまでは薬師堂または「おやくっさん(お薬師さん)」と言っていた。地元には現在も光明寺を薬師寺と呼ぶ人もいる。地元には現在も光明寺を薬師寺と呼ぶ人もいる。
明治の中頃に、薬師山の入会権を鷲巣村で保有するために登記登録・所有権移転を行っていたが、昭和に入ってから光明寺と住民との間で入会権をめぐって争いになった。訴訟の経緯は白山神社境内の中島嘉樹氏顕彰碑に説明されている。
2012年現在光明寺(薬師堂)の管理は鷲巣の88軒が共同で担当しているが、行事は特に行ってない。
1993年頃に光明寺の屋根が抜けてしまい、ブルーシートが張ってあった。屋根は2010年頃に区の有志で費用を出しあって直した。基本的に光明寺に区の費用は使わない。
2013年現在、光明寺には信者もご住職もおらず、誰もお世話をしようとしないので維持管理に困っており、結局区でお守りをしている。