寛保3年(1743)に志津村の庄屋国枝彦太郎氏が破産し、下池に所有していた土地を保持することができなくなったため、有尾の庄屋栗田氏に権利を譲渡しようとしたところ、それに対して国枝氏の地元である志津村住民から異を唱えられ国枝氏は訴訟された。一連の裁判に関しての資料は現在岐阜県歴史資料館に美濃郡代笠松陣屋堤方文書の中に保管されている。裁判の結果を経て、現在は南濃町の飛び地になっている。

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有尾は江戸時代以前からの地名である。
有尾新田と津屋新田とが明治8年(1875)合併して田村となった。

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三郷輪中堤防の草刈りは、田地区の土地改良区という組合をつくって行っている。また養老町から津屋川の堤防の草刈りなどの管理も委託されている。
江ざらえと呼ぶ農業用水掃除の後に田地区の総会を年2回行っている。

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昭和20年代には、小倉谷の砂防工事はほぼ完成していた。堰堤は赤岩神社の上に1ヶ所、その南に1ヶ所ある。平成になってからもっと奥の方も工事をした。
小倉の村は6組に分け、各組12~13戸から構成されていた。組単位で小倉山の割り当ては決まっていたが、小倉谷に流木となった枝などは薪等に利用する為に自由に持ってくることができた。終戦過ぎの頃まで、割り木にして里へ藁と交換しに行った。小倉山は区有林なので土地は売買できないが、薪は良く取りに行った。
小倉の林道は昭和20-30年代にかけて、小倉の6組の人たちが自普請した。林道の長さは約3kmあった。
小倉山をかねほり山というのは聞いた事がある。小倉山中からは昔鉛鉱が産出していて、かねほり山と称されていた。

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小倉谷からはほとんど水が出ないので、生活水は津屋川から取っている。小倉には河間がたくさんあった。石を組んで囲い、洗濯場にしていた所もある。昭和30年代にはつるべ井戸もあった。津屋川の水位があがると河間の水量も増える。河間は、鷲巣の専明寺付近から小倉にかけて点々と湧いている。
西小倉は赤岩神社近くの浄水場から水を引いている。

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