赤松則村(あかまつ のりむら)氏は上之郷の庄屋であった。
上之郷の三昧に赤松則村氏の墓があり、不動明王が中心に据えられている。上座に天台宗の時の墓石、下座に真宗になってからの墓石が立っている。
船附では寛文4年(1664)頃に安田弥兵衛(やすだ やへえ)が船問屋として栄えた。
大垣市、船町の安田絹氏の実家は、濃尾震災にも耐えた。
絹氏が嫁入りした時、昭和30年代は、嫁入り姿のまま船附の尊光寺、法覚寺の2箇寺へお詣りに行った。
絹氏は大垣の八幡神社で式を挙げた。お嫁さんを見に集まった子供たちに煎餅を配った。
絹氏が船附に来た頃、昭和30年代は、宿屋・喫茶店・菓子屋・下駄屋・八百屋など多くの店が軒を連ねていたが昭和20年代頃から廃れてきた。
船附は文化人の往来も多かった。蔵が多くあり、今でも残っている所がある。
大雨のときは安田絹氏宅の蔵に近所の方が仏壇を預けにきた。
養老町内には「船附」と「船著」とあるが「船著」の方が古いとされている。
中世より前は、桑名から揖斐川を通り、潮の上がりに乗って下笠の市場千軒(田村の東側)まで木材などを運んできていた。やがて徐々に川底が浅くなり、江戸末期には舟運が不可能になった。
昭和初期、大垣市の船町から船で潮干狩りに行くのがとても楽しみだった。船附湊のあたりは周りがよく見えないほど葦がたくさん生えていた。
大垣から伊勢までは、松尾芭蕉も船で移動した。
室町時代(1338-1573)の頃から堤防が作られ、船運も開かれ、江戸時代より新田開発され輪中が発達した。
下笠輪中は養老町でも最も古く、元和元年(1615)年に形成されている。
船附村には65種の職業があり、劇場もあった。
船附村の名産は川魚である。中山で川魚や鮒味噌など、川魚の加工品を販売していたが、今は廃業してしまっている。
他には宿と料理屋を営んでいた周吉(しゅうきち)や、料理屋鮒源(ふなげん)などがあった。
河川改修前の昭和20年頃までは11月1日に猟が解禁になると、鉄砲撃ちが泊りがけで河川敷の鳥などを狙って猟をしていた。
堤防改修時に寺社の敷地も移転の対象になったが、国交省が寺社の移転に関わりたくないと言う考えがあったため寺社の移転は控えていた。その後役人の方針が変わってから根古地、大野(大野稲荷神社、大野八幡神社)、釜段の西と東、輪之内などの寺社が移転していった。