養老町養老の京ヶ脇には田中竹次郎之碑がある。未調査のため、詳細は不明である。
沢田の金草川に湊を作り、水運で関ケ原・今須を抜け、琵琶湖まで通そうとする江濃運河(こうのううんが)計画が立てられた。20日間ほど進行したがうまくいかず、計画は頓挫した。沢田文書に江濃運河計画の史料が有る。沢田字本郷地内に船泊の跡地がある。
養老神社と行宮神社(養老神社御旅所)の例祭は10月8日に行われる。2010年の様子は以下の通りである。
養老神社では、神事が13:15から始まる。白石の住民で組織された雅楽会が神事の際、雅楽の奉納を行っていた。現在雅楽は継承されておらず、録音テープによる奉納を行っている。
13:50に本殿から神官により御霊が丁寧に箱に納められた状態で、神輿に移される。昔、神輿は石段を上がった拝殿の前まで担いで登って御移しを行ったが、現在は石段の下で待機している。神輿の重量は100貫(375kg)。男子のみ8名で担がれ、神輿を激しく揺さぶる程神様が喜ぶといわれており、興に乗り過ぎて豆馬亭の玄関を壊したこともあった。現在は台車に乗せられお練りを行う。
神輿は養老神社から白石の燈明に向かう。御旅所では神輿が前を通り過ぎる時に太鼓(でんがらがし)が打ち囃される。昔は御旅所前の辻に太鼓を置いたが、観光客の交通量が増えた為、御旅所で打ち囃されるようになった。
14:15、白石の燈明で、10分ほど休憩の後、御旅所に御霊が移される。御旅の道中では露店が並ぶ中、囃子が奏され(現在は高山の祭り囃子を録音テープで再生)賑やかに神輿のお練りがなされたが、御旅所や神社内では厳かに神輿を担いだ。
14:30、御旅所にて神輿から御霊の御移しの神事が行われる。昔は巫女舞や能を奉納していた。明治43年、舞殿が落成した折に高田の謡の会より献上された額が舞殿に掲げられている。夜には太鼓を打ち囃し、松明行列を組み獣道のような山中を歩いた。現在は、御旅所脇の道路の西のカーブまで行き、松明を燃やして戻ってくる「山おろし」のみを行っている。この松明行列は、天皇行幸を祝った時の名残ではないかとのこと。御旅所に御霊を御移しした後に雨が降ると、雨が止むまで御旅所で御霊を守りされていたが、現在は雨が降ると車で御旅を行う。
前神官の日記があるらしい。
御旅所の石段は弓なりに造られており、このあたりでは大変珍しい工法である。石段を手掛けた石工は藤塚久治氏の先祖であり、先祖の写真が残っている。
行宮神社では18時から提灯に点灯すると、松明を持つ係(氏子、子ども会員)が待避場に移動を始める。
19時30分に御神体を神輿に遷し、養老神社へ移動する。現在はリアカーに積んでいるが、以前は8人で担いだ。
養老神社の石段を登るのが大変で、酔った勢いで神輿を落としそうになったこともある。
養老神社に到着後は、御神体を神社に還す。
松明については以下の聞き取りがなされた。その昔、干ばつが続き農作物が採れない時があった。雨乞いのため山の神様にお願いをしたところ、雨が降り出した。それを感謝する意味で始まったのではないか、とのことである。長老によると、昔は山の神様までのぼってそこで一杯やってから松明行列を行った。山の神の祠へは、行宮神社のある三の段(養老山内の地名)まで上らなければならない。
行宮(あんぐう)神社の創立年代は不詳である。
行宮神社は現在の御鍬神社の位置にあった。神社に元正天皇を迎えた時の様子を模した祭りは現在も行っている。昔は松明を焚いて山下りを行ったが、現在は神前で大篝火(おおかがりび)を焚く。
行宮神社は明治42年に養老神社に合祀された。合祀後は、御旅所として、現在も存在している。
行宮(あんぐう)神社の例祭は毎年元正天皇の行幸をお迎えしたといわれる9月20日に行っていたが、後に7月、4月と替わり、現在は養老神社の10月の例祭時に御旅所として御神影の御渡りを迎える。
明治42年に行宮神社は養老天満宮と養老天神宮に合祀されて養老神社と改められ、その後御旅所として現在の御鍬神社に遷宮された。
明治7年から明治13年にかけて近郷80余ヶ村による雨乞い神事を行った。その結果好雨を賜ったとしてお礼に北は行宮神社、南は三重県多度山にまで及ぶ燈火を点じた。また、当初は養老山山頂で一丈(約3m)の長さの御幣を奉納して、提灯や竹を束にして両端に火をつけた松明を灯したが、昭和40年頃には養老山の中腹での献灯献酒となった。現在は諸事情により大洞林道の二の曲がりで献灯献酒を行うに留まっている。