上之郷では虫送りを行っていて、和田の人が見に行った。実盛(サネモリ)さんという人形を作り、松明を持って金草川まで虫を送った。
明治24(1891)年の濃尾大震災前に、鷲巣(わしのす)字八千代原に八千代学校が出来た。鷲巣、明徳、石畑、白石の村立学校であった。震災で一度学校が潰れたが、やがて元通りになった。その後も生徒は鷲巣、白石、明徳、石畑から通っていた。
鷲巣(わしのす)には元庄屋の家系にA氏、B氏という家があった。その他にも地主は2、3軒あったが農地解放で土地を失った。
上多度地区鷲巣(わしのす)、字庄司屋敷(しょうじやしき)のあたりに鷲巣城があったと言う人がいる。
鷲巣(わしのす)の生業は農業が多い。
昔は津屋川の堤防の西側もすべて田んぼであった。現在人が住んでいるような、土地が高くなっている所には田んぼはなかった。
字神屋田(かみやだ)全体と、白山神社の西も田んぼであった。
昔田んぼだった所が、今では畑や雑地になっていたり、休耕田になっている。
鷲巣の人で、津屋川の堤防の東に住んでいた人は、A氏の知っている限りはいない。昔から殆ど田んぼである。西側の住宅から田んぼへ行く道としては、津屋川を橋で渡って行ったあたりに新橋(字稗田(ひえだ))、津島街道の橋、灯明橋(字川並(かわなみ))、寺橋(字北組(きたぐみ))、クルマエ橋(漢字不明、地元の通称名)がある。白山神社の東にかかる橋は車が通らないので、これらの石橋で行き来していた。橋も全部新しくなったが、昔の橋は手すりもなく、石が並べてあるだけだった。
養老駅のすぐ東は、畑だった。
昭和10年代は、鷲巣の住民は農作業の取り入れの手伝いや、若い人は砂防工事に出かけた。学校の先生も多かった。