養北小学校は小畑地区の飯田の集落の東端にある。養老町の昔の学校は村の中にあることが多いが、新しい学校は端に出来ることが多い。
飯田地内に養北小学校があるので、運動会では、飯田の子よりも遠方から通う祖父江や江月の子の方が体力があった。通学路の長さは、子どもの体力に如実に反映していると思う。
養北小学校を卒業すると高田中学校へ進学した。高田中学校に通う時は、祖父江、蛇持は遠かったため自転車通学だったが、飯田の子は歩いていかなければならず、しんどかった。

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昔は、日吉の宇田から小畑の祖父江までを有田の庄と言って、歌にもなったらしい。
飯田には、字八之坪など古い名称がまだ一部に残っている。

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飯田字丸ノ内の飯田安藤氏の本家のあたりに飯田城というお城があったと言われている。お城と言っても小さな砦であったようである。

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飯田の墓地は現在の位置より東にあったが、少し西に移した。元の場所は、字八之坪の道沿い、字門田(かどた)の三角池の隣であった。共同で使う場所は、村の西側にあることが多かった。新道(県道)ができてからは、全体的に村が東側に移っていったのではないだろうかと思う。
昭和30年代頃(1955~1964年)までは子供の土葬があった。昔は大人の土葬もあったそうだ。土葬では人体が腐るのに時間が掛かり、新しく埋める場所がなくなってしまうので、過去に埋めた場所を覚えている年配の人が次に掘る場所を指示した。それでも骨が出てきたことがある。
お棺の蓋が腐ると土が落ちるので、その分お棺の上に土を盛った。
昭和30年代の終わりくらいに、お墓の傍を通るとリンが燃えて、ヒトダマを見たことがあった。死んだ人の家からヒトダマが出たという話を他の人から聞いたこともある。ヒトダマは火をつけると消えるが、火をつけるまでは一生懸命ついてくると言われていた。そのためいつもマッチを持ち歩いた。

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飯田の子は、夏は小畑川の燈明さんの所で水遊びをしていた。水深の深い所もあったが全体的に浅く、小畑川用水の樋の所で水を止めてプールにしていた。
飯田、飯積の用水確保のために小畑川の西側に出来たダムでも泳いで遊んだ。
飯田は上流、飯積は小畑橋の側の下流で遊んでいたが、飯田の子が下流の方へ下って行くこともあった。小畑川の堤防の南側へ行くと大池がありヒシを取りに行った。
小畑川には飯積の子も遊びにくるので喧嘩ばかりしていた。飯田の子は飯積の子より人数が多く、上流で遊んでいる飯田の子に藻や色々な物を流されて水が汚れる、というのが飯積の子の言い分だった。
昭和40年代に、堤防の草をむしって遊んでいたら草に引っかかて川に落ちて溺れたことがある。上級生に助けてもらったが、誰もいなかったら、死んでいただろう。
昭和45年(1970年)まではこのような状況であったが、昭和45年に小学校にプールが出来、近くの河間が埋め立てられてきれいな水が流れて来なくなったので、川で泳がなくなった。河間の水は冷たくてきれいだったが、埋め立ててからは、水が汚れてしまった。

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