願専寺(がんせんじ)は、養老町上之郷246番地にある寺で、大同3年(808)の開基である。何度かの中絶の後、文治3年(1187)に天台宗の寺院として源照院と称した。その後、明応6年(1497)に浄土真宗に改宗して願専寺と改めた。本尊は阿弥陀如来である。
願専寺(がんせんじ)は、上之郷の門徒が基盤である。お常飯として、門徒であるなしに関わらず、親族内の誰かの命日に希望されれば30分ほど各家庭を回る。
お常飯は他宗でいうところの托鉢に似ているが、門前でお経をあげる他宗派と異なり、屋内でお内仏にお経をあげるのは、浄土真宗ならではの習慣である。
女性のみで行う女人講、報恩講などの講制度もある。これは、室町時代に蓮如上人が始めた制度である。
上之郷の願専寺の報恩講は、村の6軒の年行司がつとめる。上之郷全体の門徒は72軒ほどなので、11-12年毎に年行司の役が回ってくる。総代は公式に届けるのは3名だが、上之郷の村は5つの組に分かれて各組から一人ずつ出ているので実質5名である。
報恩講の制度は古く、室町時代頃からかと思う。浄土真宗の活動として、村全体で御勤めをしていた。昔の方が盛んであった。
願専寺の創建は大同3年(808)と言われており、『岐阜県の地名』(日本歴史地名体系21 p.144)にも掲載されているが、この年代がどこから出ているのかは不明である。火災で大部分焼けてしまったが、わずかに残っている古文書に記述があるためかと推測している。元は天台宗だったが明応6年(1497)に浄土真宗に改修した。
上之郷の庄屋、赤松則村(あかまつ のりむら)氏の位牌がある。
願専寺のお代本の裏書には美濃国多芸郡とされている。
寺証文は紛失し、過去帳も火事か洪水のため一部抜けている。
船附の法覚寺、尊光寺は願専寺と相焼香(あいじょうこう)だったので今も付き合いがある。
願専寺の住職は、男門徒、女門徒などは美濃、西濃地方の人の動きが特に活発だったからではないかと考えている。例えば山へ開拓をしに行くのならば、一定期間のみ元の家を離れるだけにせよ、開拓先の近くの寺に行った方がわざわざ出先から元の家の寺へ戻るよりも何かと便利だった、という考え方である。
東本願寺での門徒数の集計でも、男門徒や女門徒というように、美濃地方の門徒の特殊な数え方ではうまくいかなかったのではないかと思う。
門徒はお寺を変わらない、という意識は江戸時代くらいからかと考えている。60歳代くらいまでの方にはそういった意識は強く、50歳代以下は、必要なときにだけお寺にお願いする、という具合に現在(平成22年)では変わってきた。
浄土真宗以外の家で浄土真宗のお経をあげることは地蔵盆の時などにある。
願専寺に限らず、人が生まれてから死ぬまでに寺と関わる行事が無くなってきている。難しい仏教の教義を一方的に教えるのではなく、お互いに話しをする機会を持つように、写経の会などを行って寺に足を運んでもらう努力をしている。
笠郷地区では大体の家庭が法要を50回忌まで行っているが、中には13回忌まで、3回忌までで良いという家もある。
願専寺と上之郷の庄屋近藤家は関係が深く、毎日の行をするために、寺から近藤家へ通じる道があった。
上之郷の文政年間(1818~1829)の庄屋は川岸勝三郎(かわぎし かつさぶろう)氏であった。願専寺の南側の家には川岸家の家の石垣が残っている。
願専寺の住職は、江戸の後期になって寺に山号がつけられた理由について、寺院は元々山にあるもので、平野部の寺に山号はふさわしくないため一旦途絶えたが、江戸の後期にまた復活したのではないかと考えている。

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表示位置は願専寺を示している。