仁位は、本村宇田との関係が深かったが、橋爪・金屋とはあまり関係がなかった。ただ、橋爪若宮八幡宮をまつる加藤家とは関係がある。
仁位は昔は19戸で分家も少なかった。現在30戸数前後にはなったが戸数の増加は近隣の村と比較しても最も少ないであろうが、戸数が少ない分部落内の協調性は高いと思う。
区画整理によって仁位の昔の面影がまるでなくなってしまった。
仁位では自分の村から出て人の土地の田んぼを耕す、出作(しゅっさく)をすることが多かった。
仁位には若連中という組織があり、昭和20年生れくらいの人までが所属した経験を持つ。入会をするには重箱2つ程の料理を用意した。15歳から結婚するまでの男子で構成され、神社の世話などをした。結婚したら一人前として認められ、若連中を脱会した。
仁位地内に元日吉村役場があった。
仁位ではお取越、お常半を寺に勤めてもらう。お常半のお布施は月ごとにまとめて納める。昔は祥月では米一升のお布施を納めたが、2010年現在は1年間で1軒につき24,000円を納めている。お布施の値段によっては読経に合わせて拍子木を打つ。
仁位では佐藤氏の家系がもっとも古くから居住しているが、いつ頃から家系が続いているのかはわからない。
仁位の西の方に住んでいた人が野鍛冶をされていたが室原に転居していった。
仁位には酒飲みが多く、田中屋など、酒屋が多かった。
大墳村で、馬肉を買ってきて肉飯(にくめし)を炊いて食べた。
終戦頃、黒田モーターサイクル(宇田174-1)の西に米つき屋があった。白米供出という制度があった。秋に米が収穫してから4月頃まで米を搗(つ)いていた。倉庫には300俵程の俵が積み上げられていた。くず米を米粉にひいた。
仁位集会所に石臼があったが処分された。堀建設のところに石臼が残っている。
仁位では、子供が生まれると飯(はん)の木を植え、一生を終える頃にその飯の木でお棺を作るといわれている。
仁位に引っ越してきて属する寺が決まっていない内にご主人を亡くした人に、地元の人が寺を仲介したり、葬式・法要の費用を確認するなどの世話をした。
仁位村は昔の牧田川沿いに存在した。仁位の西側にあるため、西河原と付けられた地名がある。
仁位という地名について、一位を憚って二位としたのではないかという意見と、神職が二位の位を持っていたのではないかという意見がある。

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白米共出制度 昭和年代に国の制度で食糧管理(食管)制度があり、農林省の指導により国民の一年分の米が保有されていた。政府米という名の元に、国が買いあげた。その米を農家が白米に精製して出荷した。これを白米供出制度という。現在は食管制度は無い。 表示位置は仁位の中心あたりを示している。