現在の養老町は養老公園あたりに注目され、高田など養老公園の周辺に経済効果を生む様なアクセスはあまり考えられていないように感じる。平成初年頃には養老町商工会全体で連携プレーが取れており、養老町商工会養老支部長は高田商店街にも関心を寄せておられた。また平成初年頃まで、商工会の新年会などの行事はほとんど豆馬亭を利用され、猪を食べた。昭和の初め頃、千歳楼のことを吉岡と呼んでいる人も多かった。
高田と養老の筆頭格によって、養老公園と高田商店街を併せて活性化させる動きがあった。高田と養老を関連づける為に企画された構想には、温泉、地ビールなどが上げられ、資金も、理事一人あたり10万円を募った結果3000万円程集まった。最終的には計画は破綻してしまい、先導者がその損害を被り後処理を行なったが、活性化に対する意気込みは強かった。
昔は養老と高田がうまく連携を取れており、双方に活気があった。昭和年代に入っても、高田には多くの芸者がおり花見等の時期には双方の料亭や芸者の置屋などが相互に提携し合った。しかし、現在はそういった繋がりや意識を持った者がない。高田の天神祭りに養老から参加している写真があり、養老と高田の交流は多く見られた。高田の花柳界は養老の料亭や旅館と共存していたというような面もある。宴席の一次会は養老で開かれ、二次会は高田に移動して開かれるというのが通例であった。多い時には100人程の芸者が高田にいた。大和町、城前町、東洋町の一角、共進町の周辺は花柳界としてとても華やかであった。その頃から2015年現在の高田の町の様子を見ると寂しい限りである。