岐阜県養老公園には老舗といわれる旅館が何軒かあるが、豆馬亭(とうまてい、養老公園1282)はその内の一軒である。
養老町橋爪の村上雄三氏が始めた村上旅館が豆馬亭の前身である。雄三氏のお母様が旅館を始めるにあたって土地を選定していたらしい。
村上旅館については、旅館がいつから始まり、どの時点で豆馬亭と名前を変えたのか、村上旅館の元の敷地の範囲はどこからどこまでだったのかなど、不明な点が多い。
村上旅館の始まりについては二種類の意見がある。一つは現在の豆馬亭の敷地の南端一角にあったといわれる瓢遊亭(ひょうゆうてい)を除く部分で開業し、後に村上雄三氏が瓢遊亭の土地を買い取ったという意見、もう一つは瓢遊亭を買い取ることを契機に村上旅館を開業したという意見である。2012年現在の調査ではどちらの意見についてもはっきりとした確証は得られていない。
なお、瓢遊亭は下の方の土地で再度営業したが、現在は廃業しているようである。
旅館の名前を豆馬亭としたのは、村上雄三氏が島地黙雷(しまじもくらい)の漢詩を参考に「村上旅館」から「豆馬亭」に命名したとされている。漢詩の内容が「馬が一寸ほど、人が豆粒のように見える(ほどの絶景である)」という意味だったので、豆馬亭からの景色を見てそう命名したのではないだろうかと思う。
このことについて、島地黙雷の色紙の資料を除いて他に参考となる資料はあまり出てきていないが、養老公園事務所の主任だった田中憲策氏が豆馬亭と命名された由来の島地黙雷の漢詩について、「美濃文化誌77号」に書かれている。
その漢詩を軸装したものが豆馬亭にある。島地黙雷が豆馬亭に宿泊したことがあるかどうかは不明である。
憲策氏の話では、偕楽社と豆馬亭の創業時期は同じ明治の頃である。旅館の名称を村上旅館から豆馬亭に変更した時期については、養老公園開設の明治13年(1880)頃だったと思われる。
養老公園全図にも新しく建て替えた豆馬亭の東西に建っている建物が描かれている。

Posted in その他, 経済, 養老 | Tagged , | Leave a comment
美濃文化誌77号には、大正4年7月の教育新聞特別養老号の記事の中に島地黙雷の「養老豆馬亭」と題する絶句の漢詩が登載されたこと、この詩は過日、黙雷が養老に来遊の時の作詞と思われることが記されている。表示位置は豆馬亭を示している。