昭和30年代から昭和40年代(1955~1974)は養老町の花柳界が大変賑わっていた。
花柳界は格式の違いが非常に重んじられた世界である。
養老町の料理屋さんでも芸妓さんの格式によって、出入りできる料理屋さんが決まっていた。例えば老舗旅館の千歳楼(せんざいろう、養老町養老1079)さんへはAさんしか出入りできなかった。
普段は入れない料理屋さんでも、お客様に「あの子がいいから」と指名されると、そのお座敷に上がる事があった。ただし料理屋さんによっては、「お座敷に来てもらってもいいけど、着物ではなく洋服でくるように」と言われるところがあった。普通はお座敷へは着物で上がるが、洋服でお座敷に行けば着物を着た芸妓さんとは同等に扱われず、ランクを下げる事を意味した。それでもお客様から、洋服でもいいからと指名されれば料理屋さんに行った。最初は洋服を着てお座敷に上がっていたが、やがて料理屋さんに認められれば、その次からはちゃんと着物を着てお座敷に上がらせてもらえた。
昭和50年代(1975~1984)中頃は、Bさんが所属していた玉野屋の置屋は養老公園のどこの料理屋さんのお座敷にも上がれなかった。不忘園で執り行われる予定だった結婚式を、不忘園で火災があった為に、養老の料理屋さんで行うことになったことがある。養老の料理屋さんでは第2検番の芸妓さんを用意していたが、Bさんは置屋のお父さんに「元々はお前達が行く席だったんだから行け」と言われて、お姐さんと二人だけで行かされた。Bさんはこの世界に入って何か月目かの下っ端だったので、厨房へお酒を取りに行くと、厨房から「何?玉野屋の芸者?帰ってもらえ。誰が呼んだんや。帰らせえ」と言う声が聞こえてきた。その後大変な勢いで怒られて、本当にみじめな思いをした。

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表示位置は不忘園があった場所を示している。