花柳界が華やかだった昭和40年代(1965~1974)頃、養老町高田には芸妓さんを抱えていた置屋が6軒あった。玉野屋(たまのや、北浦町)、巽寮(たつみりょう、北浦町)、蔦の屋(つたのや、城前町)、吟月(きんげつ、島田)、鈴竜(すずりゅう、城前町)、屋号や場所は覚えていないが秀有(ひでゆう)さんという親方が2、3人の芸妓さんを抱えて営む置屋の6軒である。
また、この他に三味線のお姐さん達が独立して芸妓さんをやってみえた
置屋には、お馴染みさんや近場に住む人など、直接遊びに来るお客様が時々みえた。サービス精神の多いお客様は、置屋にいる売れていない芸妓さん達を励まし育てる意味で横に座らせておしゃべりをしていった。
お座敷の花代は、置屋が料理屋さんに少しお礼を出した残りを検番と置屋で折半していた。昔は花代の事を線香代とも言った。線香を一本立ててそれが燃え尽きるといくらと決めていた。昭和40年代前半に花柳界入りしたA氏は実物を見たことがないが、聞いた話では時間をはかるための線香がお座敷のすみに置いてあったそうである。線香一本が燃え尽きるまでだいたい45分くらいだった。
また、お姐さん達から聞いた話では、昔はお座敷で遊ぶために、お米を持ってきて花代の代わりにしたお客様もいたらしい。お百姓さんは娘の嫁入り支度で現金がなくて着物が買えない時に、自分の所の土地と引き換えに呉服を買うこともあったそうである。
昭和50年代後半(1980~1984)頃になると置屋制度をつぶそうという動きが出てきた。芸妓さんに「置屋が搾取しているから、もしも芸妓さんが自立すれば花代は全部自分の身入りになる」ということを吹き込む人もいた。置屋が芸妓から搾取していると騒がれたこともあり、置屋が悪者になっていた。芸妓であったA氏からみれば、親方である置屋が利益を得てある程度大きくならないと仕事もまわって来ないと思っていたが、周りはそれを搾取だと騒いでいた。あの頃芸妓さんが一人前になれたのは置屋の援助のおかげだと思う。新年の互礼会も初めの内は置屋が無料で着物を借してくれたし、お座敷によって女将さんが場にふさわしい着物のアドバイスをしてくれていた。芸妓さんになるような人はみな色々な事情があり苦労をして、縁あって置屋へやってきていた。それが毎日の食べるものを心配しなくてもよくなると、自分一人で一人前になったかのように思って、置屋への恩はすぐに忘れてしまう人もいた。
しかし、いざ芸妓さんが置屋から自立すると簡単にお座敷を休んだり、お客様から値切られたりしていい結果は出なかった。花柳界がだんだん衰退していったのはそういう事情もあったと思う。
養老町の置屋さんは平成9年(1997)には全て廃業になった。その後も養老町の花柳界の雰囲気や芸者の伝統的な文化を残したく思い、10年ほどコンパニオンの女の子にも着物をきせて頑張ったが、人数も少なくなり、結局芸者さんは育たなかった。
置屋さんがなくなった今、養老公園のかつての花柳界の制度をもとに戻すことは難しい。今から芸妓さんを育成して、お座敷へ揚げるまで育てても、今はそのような接待をする仕事がない。

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置屋とは、芸妓さんを居住させて、店の求めに応じて茶屋・料亭などに芸妓さんを差し向けることを業とする店である。 検番とは、料理屋や置屋などの業者がつくる組合のことである。芸妓の斡旋や料金の決済などの事務処理を行っていた。表示位置は第1検番があった場所を示している。