昭和30年代から昭和40年代(1955~1974)は養老町の花柳界が大変賑やかな時代であった。
当時は、県事務所や保健事務所、警察関係、町村会、消防、農協等の官庁のお客様だけでも花柳界の仕事は充分にまわり、民間のお客様はあまりいらないと感じる程だった。
ライオンズクラブやJC(公益社団法人日本青年会議所)、ロータリークラブなどの接待もあった。
宴会は「竹取姫の宿養老館(養老町養老534番地、現在は廃業)」さんや、「掬水(養老町養老公園1286-1)」さん、「不忘園(ふぼうえん、北浦町)」さんなどで行われた。
掬水さんは特に団体のお客様が多かった。
「千歳楼(養老町養老1079)」さんは少し他の所とはお客様の雰囲気が違うように感じた。
建設組合の総会・懇親会は200人程の大人数で、場所は養老館さんで行われた。
官公庁のお客様はいいお客様だった。警察の署長などは最高のお客様だった。警察管はお酒が強く、お酒が強いとお座敷が長引くので利益につながった。農協の方もお酒が強かった。
昔は若い子でも町屋へきていた。町屋へ行って、若いお客さんと知ると儲からないのでがっかりした。お座敷は50代、60代の方が対象だったので、40代くらいの人だと若いなぁと感じた。若い人は飲んだ時に、酔っ払ってどうなるか分からない所があって怖かった。50、60代になると、もう社会的に自分の立場も考えられる方ばかりで安心して飲んでいられた。
官公庁の大きな宴会は昼に行われることが多かった。宴会が終ると、養老公園から高田の不忘園のあたりに席を移し、そこからまた各々流れて行った。消防も、一次会で盛り上り、幹部クラスは二次会で高田へきてまた盛り上がるという感じだった。芸妓さん達は、昼夜仕事があり、仕事には不自由しなかった。芸妓さんの定休日は月に一日だけだったので、その時はひたすら寝ていた。
高度成長期で世の中が上向きになった時代の花柳界の仕事は本当に華やかだった。
高田で宴会をした後も柳ケ瀬へ飲みに行った。
昭和40年代(1965~1974)、養老町の花柳界の最盛期の時には、高田には芸妓さんが47人くらいいた。同じ頃、墨俣では100人近く、池野は7、80人程芸妓さんがみえて、芸妓さんの数は高田が一番少なかった。
不忘園さんや松園(しょうえん)さんといった町屋での仕事がたくさんあった。
芸妓さんが高田から養老公園に行くときはお客様持ちで必ずタクシーに乗って出掛けていたが、町内の松園さん等へ行く時はお客様からタクシー代が出ないので、ぶつぶつ言いながら歩いて出掛けていた。松園さんまでは歩くとかなり遠く感じた。
天気の悪い時は、着物や結った髪が乱れてしまうので、誰かがいれば送ってもらったり、置屋持ちでタクシーでお店に行ったりしていた。
養老町の人は、会社の忘年会や新年会など事あるごとに宴会をしていた。
昭和50年代(1975~1984)はゼネコン関係が派手で接待が多かった。
お相撲さんが名古屋場所の後に養老公園に来ていた。
小錦はハワイから日本に来た頃からずっと、毎場所養老へ来て子供相撲などをしてくれていた。養老町出身の鬼面山谷五郎も小錦の付き人として来た事がある。
お相撲さんのお座敷は、昭和40年代(1965~1974)は養老公園の中では清風楼(せいふうろう、養老町養老公園1285)さんが多かった。掬水(きくすい、養老公園1286-1)さんにお相撲さんの写真がいっぱいあったので、昭和30年代頃(1955~1964)は、掬水さんでも宴会をしてみえたと思う。
お相撲さんを招待して多度の豆まきに前夜祭から行ったことがある。
昭和53、4年頃、清水町長さんの時代にミス養老というイベントがあった。そのイベントに芸妓さんの写真を使いたいという事で、玉野屋から二人が選ばれ、源丞内の扮装をした。
昭和53、4年頃に養老観光協会が養老公園をPRするイベントがあった。養老公園から衣装を着て、ひょうたんやポスターをたくさん持ってバスで名古屋駅へ行った。参加した芸妓さんは2、3人くらいで、衣装はお姐さんに着せてもらった。衣装は料芸組合のものであった。
高田の天神祭に料芸組合がサービスで参加したことがある。衣装は観光協会から支給された。
昭和50年代前半(1975~1979)は、三味線の姐さんによく連れて歩いてもらったが、やがてカラオケがブームになると、お座敷でもカラオケをするようになった。三味線のお姐さんや踊りのお姐さん達の仕事は少なくなった。三味線のお姐さん達がお座敷に入っても演歌などを弾かされたりして気の毒だった。徐々に以前の様なお座敷が少なくなりお姐さん達がやめられていった。また、次の世代も難儀して三味線を覚えるよりも手っ取り早くカラオケやダンスでお客様を楽しませる方向に変わっていった。芸事が廃れれば花柳界の権威もなくなり、結局花柳界はだめになっていった。
昭和50年代後半(1980~1984)頃は町屋の遊びも少なくなってきた。社会事情も変わってきた。
その頃から役場の人からのお座敷は声がかからなくなり、だんだん面白みがない時代になっていった。どんな社会にも少しは遊びの要素があった方がいいと思う。
今は会社の忘年会も居酒屋のようなところばかりで行われている。

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町屋とは、料亭よりも規模が小さく庶民的な小料理屋さんのことである。高田の町には山月(さんげつ)や秀月(しゅうげつ)等の小料理屋さんがあった。表示位置は玉野屋があった場所を示している。