養老町下笠の三ツ屋は街道沿いにある。京都の東本願寺の一如上人が名古屋別院を建てられるために名古屋に向かわれた際、三ツ屋を通りかかる頃に御病気にかかられたため村で介抱申し上げた。その時お世話をしたのが浄誓寺(下笠763)の門徒19戸の村人である。後に浄誓寺を通じて一如上人の御文が三ツ屋の村へ届いた。それは今日まで守られてきている。三ツ屋に残る文書としてはそれが一番古い。一如上人が来られたのはおそらく元禄13年(1700)示寂(じじゃく、高僧が亡くなること)の2~3年前だと思う。
三ツ屋という地名の由来は始めに安部(あんべ)氏、松永(まつなが)氏、伊藤(いとう)氏という三軒の家があり、そこから発展したためである。これらの姓は今でも集落の中で多数を占めている。
昭和の初めくらいまで三ツ屋に遊郭が2軒ほどあった。
昭和3年(1928)頃に下笠村に電気が引かれた。下笠の中でも三ツ屋は他より先に電気が通るようになった。当時は村で寄り集まって発電所からここまで電気が来るのに、すぐに来るのか、一時間か、根古地から一軒一軒経由してきたら何時間もかかるのではないか、などと議論した。また、戦前に三ツ屋は低湿地で穫れないのでバーチカルポンプという水を揚げる発動機で水を上げていた。ある時作動中のポンプが水没してしまった。中でまだ動いているという人と、停まっているという人がいたが、動いていたら恐ろしくて取りに行けないといって誰が回収するかでもめたそうである。当時は新しく導入される文明に対してそのくらいの知識しかなかった。
三ツ屋は街道沿いだったので烏江湊(からすえみなと)のように人の行き来が多く、宿場があった。
三ツ屋には農業、商業のほかに漁業も行われていた。漁師舟がたくさんあって賑わっていた。
今の山種(やまたね)さんの前身である魚屋の問屋があった。養老町中の漁師が山種に獲った魚を売りにきていた。
山種さんの店の前に、現存する木としては三ツ屋で一番古い樹齢120年くらいの大きな銀杏の木がある。
昭和10年代後半(1940~1944)には八畳でも入りきらないほどの欅(けやき)の大木が八幡神社(三ツ屋)のすぐ北側にあった。その欅は中が空洞になって回りしかなくなっており、風で倒れてしまった。
A氏が三ツ屋に残っていた教育勅語を見つけた。教育勅語は額に入れて三ツ屋の青少年集会所に飾ってある。戦中に校長先生が読まれた本物だと思う。
東部中学校の建っているあたりは山の内という字名で非常に地盤が高い。東部中学校の西側は字新切(しんぎれ)という。
三ツ屋には堀田があったが、土地改良でなくなった。
農作業の合間に村中が揃って休みの日とする農上がりの風習があった。若衆で夏中に5~6回農上がりの日を決めて、その日は馬肉やかしわ肉の御馳走にご飯を炊いてお酒を少し飲んだ。農上がり団子もあった。
三ツ屋は笠郷地区の中では、構(かまえ)とか懐(ふところ)とはそんなに付き合いは無かった。和田とは水のことでもめることが時々あったようである。
表示位置は三ツ屋の中心あたりを示している。