昔は、何かといえば芸者を呼んだ。青年団や消防団などで酒を飲む時はもちろん、法事の時でも芸者を呼んだことがある。
高田に住んでいたA氏(2012年現在77歳)のお父様は、青年団とは関係なく、毎晩高田地区字北浦の置屋へ遊びに行っていた。芸者買いをするお金はなかったが、元々お酒は飲まないのでお金もかからず、客としてではなく個人的に芸者置屋へ行って遊んでいるだけであった。田植えの時期でも、夜になると置屋へ足しげく通い、芸者が昼間にA家の田植えを手伝いに来るほどだった。普通は客が置屋に上がりこむことはない。
A氏は、個人的に芸者遊びをしたことが一度だけある。青年団に入団できる15歳になった時、一人で芸者遊びをしないと一人前ではないと言われ、青年団に入れて貰えなかったので、本当に行ったかどうかを確認する監視付で、料理屋で芸者を呼び、酒を飲んだ。
高田は芸者の本場であった。芸者の置屋は、高田の字北浦と、字城前町の2か所にあった。
北浦の置屋は、昔の高田小学校から細い道へ入った、魚桂(うおけい、押越47-3)があった辺りにあった。城前町の置屋は、八百屋の若山(高田367-1)より南、料理屋の丹羽幸(にわこう、城前町369)までの所にあったと思う。周辺には「喜楽(きらく)」など、料理屋がたくさんあった。
押越の人が芸者遊びをする際は、高田へ行った。料理屋は色々な所があったが、丹羽幸が最も安かった。反対に、不忘園(ふぼうえん)は高級な料亭であった。不忘園は、今の大垣共立銀行養老支店(高田108-2)の大きい方の駐車場の場所にあったが、火事で燃えてしまった。
芸者は、料理屋を通して呼んだが、馴染みの芸者がいる場合は名指しで呼んだ。
高田の芸者は、全部で4、50人いたのではないだろうか。
芸者がみんな出払うほど、高田の町にたくさんの料理屋があった訳ではなく、高田の芸者は養老公園の料理屋まで行くことが多かった。芸者が置屋から料理屋まで移動する際は、高田町内は歩いて移動し、高田から養老まではタクシーなどを使っていたように思う。
芸者を呼ぶのは、それほど高くはなかった。青年団の場合は、青年団の会費の中で支払える程度だった。
芸者はたいてい宴会の途中から来た。中々お酒が進んでいない所へ芸者が来ると、酒を進めるのが上手いので、一気にお酒を飲む量が増えて、お店側にもありがたいことだったのではないだろうか。
芸者は、若い人から上は50歳位までいた。年を取った人は、芸で売ったり、年季が入っているので人あしらいが上手で客を楽しませるコツを持っていた。芸は殆ど三味線であった。カラオケがない時代だったので、手拍子の歌(民謡や民謡崩し)を歌っていた。三味線が弾けず、お酌をするだけの芸者は、転び芸者と呼ばれていた。
養老以外では、揖斐郡池田町の池野にも置屋がたくさんあった。
昭和6、7年(1931、1932)頃、青森県だけで6500人の娘が売られ、その娘たちの一部が大垣や養老にも売られてきており、芸者さん、おやま(遊女)さん、女郎などになった。
当時、高田には、芸者の他にカンツがいた。芸者になるには、芸者見習の期間があり、また、水揚げを済まさないと芸者になれなかった。踊り、歌、太鼓が出来る人を芸者といい、芸が出来ずにお酌しかできない人を見下してカンツと呼んでいた。

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表示位置は高田字城前町の置屋があった場所を示している。