上方の生業
昭和20年代頃、養老町の上方(うわがた)周辺は全部田んぼで、大地主の農作業を手伝ったり、小作農をしていた。また、大半の家では養蚕も行っていた。その他にわら細工、筵(むしろ)作り、縄ないなどもしていた。 上方の山は石だらけで、資源になるようなものがない。 月 [...]
タギゾウくんの養老ノート・・・養老町で見聞きした様々な情報を、テキスト・画像・位置を基に掲載しています。
分類
昭和20年代頃、養老町の上方(うわがた)周辺は全部田んぼで、大地主の農作業を手伝ったり、小作農をしていた。また、大半の家では養蚕も行っていた。その他にわら細工、筵(むしろ)作り、縄ないなどもしていた。 上方の山は石だらけで、資源になるようなものがない。 月 [...]
牧田川の改修工事の日銭稼ぎは、百姓の青年達が行っていた。昔は、百姓の若者の就職先はなかった。月給で現金収入がある人は公務員等の人達だけであった。これ以外では、地主の家に手伝いに行って、5銭、10銭を稼いだ。
昭和39年(1964)頃、養老北小学校と養老南小学校が統合に関して昭和30年代から喧嘩をしていたが、いつまでたってもまとまらなかった。養老南小学校の代表者、山下氏と氏原氏は、二人とも強引であった。 昭和40年(1965)頃、PTA会長をしていた半田登喜代氏を [...]
昭和の半ば頃、養老では、「こどもの健康を守る会」を作り、耳鼻科、皮膚科のお医者さんを岐阜大学から呼んできて、毎年学校健診をしていた。その頃のこどもの体格は小さく、背丈が低く、体力はあまりなかったが、体は丈夫だった。当時のデータは保存していない。