小畑の教育
戦後、飯田から通う主な高校には希望する進路により、進学校の大垣北高等学校、実業校では大垣農業高等学校(現、大垣養老高等学校)、大垣工業高校、大垣商業高校があった。 学校の先生の給与は村の財政によって異なっており、飯田が一番安かったといわれている。 相順寺( [...]
タギゾウくんの養老ノート・・・養老町で見聞きした様々な情報を、テキスト・画像・位置を基に掲載しています。
分類
戦後、飯田から通う主な高校には希望する進路により、進学校の大垣北高等学校、実業校では大垣農業高等学校(現、大垣養老高等学校)、大垣工業高校、大垣商業高校があった。 学校の先生の給与は村の財政によって異なっており、飯田が一番安かったといわれている。 相順寺( [...]
江月には湊はないが土場はあった。そのため、烏江・船附・栗笠の濃州三湊から杭瀬川を通って伊勢湾、桑名、今尾、大垣の舟町湊へと続く水運があり、人物・物資の交流があった。 幕末の頃から舟運が盛んになった。赤坂山の石灰を桑名を経て名古屋へ運んだ。また、桑名や名古屋の [...]
飯田には巾3尺の里道が多い。 大垣街道沿いの為、飯田は人の往来が多い。
飯田の庄屋佐竹家(飯田143)のはす向かいに薬屋の山城屋があり大きな門があった。その隣には東北大学の青山博士の生家、種油の油屋があった。 青山新一博士は明治時代、養老郡で最初に博士号を取った人物である。
養老街道の旧道には燈明や地蔵がある。 飯田の養老街道沿いには桶屋やお茶屋など多くの店が並んでいた。また、養老街道は伊藤博文総理大臣も養老に行くために通ったことがある。