教育

服部担風(はっとり たんぷう)先生は、生年慶応3(1867)年、没年昭和39(1964)年である。幼名を粂之丞(くめのじょう)といった。
冨長蝶如(とみなが ちょうにょ)氏の師であり、当時の日本における漢学の第一人者であった。愛知県弥富村で私塾を開き、漢学を
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養老町室原出身の冨長静丸(とみなが しずまる)氏は、覚民(かくみん)氏の長男である。本名を覚静(かくせい)といった。静丸は号である。子に冨長蝶如(ちょうにょ)氏、孫に冨長覚梁(かくりょう)氏をもつ。漢学の勉強の為、明治22年頃に大分県日田(ひた)へ行き、咸宜園
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託児所がない時代、他所では、農繁期は大人が忙しくて子供の面倒を見ることが出来ず、子供の水難事故が多かったという話があるが、飯田では、兄弟の多い家は農繁期でも大きい子は作業をせずに、大きい子が小さい子や商売をしている家の子と一緒に遊んでいた。昔は近所同士でお互い
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養北小学校は小畑地区の飯田の集落の東端にある。養老町の昔の学校は村の中にあることが多いが、新しい学校は端に出来ることが多い。
飯田地内に養北小学校があるので、運動会では、飯田の子よりも遠方から通う祖父江や江月の子の方が体力があった。通学路の長さは、子どもの体
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飯田の子は、夏は小畑川の燈明さんの所で水遊びをしていた。水深の深い所もあったが全体的に浅く、小畑川用水の圦樋の所で水を止めてプールにしていた。
飯田、飯積の用水確保のために小畑川の西側に出来たダムでも泳いで遊んだ。
飯田は上流、飯積は小畑橋の側の下流で遊ん
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