タギゾウくんの養老ノート・・・養老町で見聞きした様々な情報を、テキスト・画像・位置を基に掲載しています。

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その他

服部担風

服部担風(はっとり たんぷう)先生は、生年慶応3(1867)年、没年昭和39(1964)年である。幼名を粂之丞(くめのじょう)といった。 冨長蝶如(とみなが ちょうにょ)氏の師であり、当時の日本における漢学の第一人者であった。愛知県弥富村で私塾を開き、漢学を [...]

冨長静丸

養老町室原出身の冨長静丸(とみなが しずまる)氏は、覚民(かくみん)氏の長男である。本名を覚静(かくせい)といった。静丸は号である。子に冨長蝶如(ちょうにょ)氏、孫に冨長覚梁(かくりょう)氏をもつ。漢学の勉強の為、明治22年頃に大分県日田(ひた)へ行き、咸宜園 [...]

上方の生業

昭和20年代頃、養老町の上方(うわがた)周辺は全部田んぼで、大地主の農作業を手伝ったり、小作農をしていた。また、大半の家では養蚕も行っていた。その他にわら細工、筵(むしろ)作り、縄ないなどもしていた。 上方の山は石だらけで、資源になるようなものがない。 月 [...]

養老小学校統合の話合い

昭和39年(1964)頃、養老北小学校と養老南小学校が統合に関して昭和30年代から喧嘩をしていたが、いつまでたってもまとまらなかった。養老南小学校の代表者、山下氏と氏原氏は、二人とも強引であった。 昭和40年(1965)頃、PTA会長をしていた半田登喜代氏を [...]

子どもの健康を守る会

昭和の半ば頃、養老では、「こどもの健康を守る会」を作り、耳鼻科、皮膚科のお医者さんを岐阜大学から呼んできて、毎年学校健診をしていた。その頃のこどもの体格は小さく、背丈が低く、体力はあまりなかったが、体は丈夫だった。当時のデータは保存していない。