口ヶ島学校
明治17(1884)年に時習学校と立心第二学校が合併して、生徒数30人程度の口ヶ島学校ができた。初代校長は戸倉谷三郎氏、教員は2名であった。 その後5つの村で広幡小学校を作った。当時は、教員免許はなく、村の中から指導ができる知恵を持った人がやっていた。免許は [...]
タギゾウくんの養老ノート・・・養老町で見聞きした様々な情報を、テキスト・画像・位置を基に掲載しています。
その他
明治17(1884)年に時習学校と立心第二学校が合併して、生徒数30人程度の口ヶ島学校ができた。初代校長は戸倉谷三郎氏、教員は2名であった。 その後5つの村で広幡小学校を作った。当時は、教員免許はなく、村の中から指導ができる知恵を持った人がやっていた。免許は [...]
大海人皇子(おおあまのみこ、天武天皇)は壬申の乱の時に吉野を出立して伊賀、伊勢国を経由して美濃に逃れたといわれている。その際に通ったのは養老側か、上石津側かは分かっていない。 桑名で少し休憩されるのだが、船で運べるような物資の量ではないことを考えると陸路であ [...]
養老町石畑字八千代在住のA氏は、30年ほど前にこの辺りの区画を購入した。元々は山だったが、それを削って競馬場が作られ、後に宅地となった場所である。 字八千代は滝谷と柏尾谷の丁度まん中で、地盤が固い。2011年の地震でも防音の窓を閉めていて気が付かないくらいだ [...]
昔は、兵役は20歳から3年間入隊した。階級は伍長勤務上等兵、上等兵、一等兵、二等兵であった。最終学歴が尋常小学校(6年間)の者は、字が書けないためか一等兵までしかなれなかった。尋常高等小学校(2年間)まで出ていると上等兵になれた。伍長勤務上等兵になった人は、優 [...]
昭和30年代から昭和40年代(1955~1974)は養老町の花柳界が大変賑わっていた。 昭和42、3年(1967、68)頃に養老町の花柳界に入られたA氏によると、養老にはお客様をご案内できる所が少ないなりに花見の季節には桜を見に行ったり、秋には紅葉狩りに行っ [...]