経済

大野の用水は、土地改良後は牧田川の中にサイフォンを入れ、大垣市の杭瀬川から牧田川を経由して栗笠へと水を導き、栗笠~大野間の用水路を確保していた。大垣市は水の都と言われ、水が豊富で夏になっても川の水は切れた事は無い。
大野の一番北には、牧田川の水を流しだす江月
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大跡城は戸倉家のあたりにあったのではないかと考えている。戸倉家は随陽寺門徒であり、大跡の墓地に戸倉家の墓が残されている。寺院、神社への寄進は特になかったと思う。
戸倉氏は庄屋をやっていた時期もあったが、農地解放などで財を失った。

西岩道では寺小屋の話は聞いたことがない。
岩道の常性寺、大跡の西源寺には寺小屋があったが、飯ノ木はよく分からない。
広幡小学校の前身の時習学校は大跡の随陽寺を借りた。広幡小学校の初代校長は戸倉谷三郎である。
明治政府により富国強兵策として教育に力が入れら
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口ヶ島(くちがしま)の墓地は、元は金草川(かなくさがわ)の河川敷にあったが、増水すると水に浸かってしまい、堤防の上からお参りをすることもあった。お盆の時期にお参りができなくなってしまうこともあったので、金草川改修の時に現在の広幡小学校の裏手に移動した。この土地
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広幡では土地改良は伊勢湾台風の影響が大きい。広幡地区内の事業費が3800万円程度であった。
工事の大部分が人力で行われ、日当が280円~800円程であった。
昭和34年の伊勢湾台風により、農家が大打撃を受けた。農業収入がゼロの年が続いたため、国により昭和3
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