金草川はコンクリートの水路になってしまったため、蛍がいなくなった。
島田に比べて押越は禄高が低くて堤防が高くできなかったため水に浸かりやすい。特に押越の西部の土地は低い。伊勢湾台風の時は養老鉄道まで水に浸かった為、金草川に樋門を作った。
昭和30年代に、水位が上がった金草川で堤防から手を洗った記憶がある。
金草川の堤防の土手の木は部分的に私有地の所もあるので、回覧で知らせた上で草木の伐採をした。
金草川は、夏休みに遊ぶ一番の場所であった。堤防を越えるとすぐ下を流れる金草川に沿って池があり、岩道、下笠、上之郷の子どもたちの共同水泳場であった。どちらが先に場所を取るかでよく喧嘩になり、堤防の上に置いてある脱いだ下着を捨ててしまうなど悪さをしあった。子どもが泳げる場所は少なく、結局共同で使っていた。この辺りでその他に遊び場はなかった。
子どもの頃は、岩道の家からは共同の水泳場までを遠く感じた。ここを目がけて、「俺は、古橋廣之進や」「橋爪四郎や」などと言って、競争をしていた。共同の水泳場辺りに真菰(まこも)があった。竹の端にたこひもを落として、先にカエルをつけて、雷魚や蟹を捕った。
池は夏になると風呂のように熱くなった。その下は泥で、足を踏み入れると、泥が立った。池から上がると泥で真白になった。
下笠の人は、東部中学校の東にあった堀田の用水の深い所でも泳ぐが金草川へも来ていた。金草川に流れている水は冷たかったが、澄んでいたわけではなかった。
西岩道、口ヶ島の人は、金草川の共同水泳場で遊ぶことはなかった。岩道の子と上之郷の子は仲が悪く、喧嘩ばかりしていた。下笠の子が応援に行き、そこに栗笠の子がくると岩道の子が割って入った。その時のガキ大将・吹原文雄氏が行くと、クモの子を散らしたように逃げて行った。
金草川のぐねぐねの堤防は、昔と変わらない。江戸時代からの自然である。以前、町の計画で金草川の河川敷を利用してスポーツ公園にするという話もあったが、ここには植物や生物が多く、川の中の木が流れを和らげている。植物や生物を生かす自然公園ができるなら良いが、川を真っ直ぐにすると水流が強くなり、水害が起こるかもしれない。昭和10年代は堤防から手を洗えるほど水量が増すような大洪水があったが、金草川の堤防が切れたことはなかった。
広幡を流れる金草川の河川敷の周辺には、昔の田んぼの名残りがある。米作りをしていたのは古い話ではない。現在は、米を作っている家は減ったが、畑をしている家はある。
昔も高田の下河原町にある燈明のあたりが金草川の堤防だった。燈明さんのすぐ東にお稲荷さんがあるが、そちらへ向かって低くなっている。
近鉄の鉄橋ができたことで金草川の幅がせばめられ、流れにくくなった。最近は少しまとまって降るとすぐにあふれてしまう。
養老町高田の字高田には高田皇大神社がある。未調査のため、詳細は不明である。
養老町高田の島田には地蔵堂がある。未調査のため、詳細は不明である。
山口俊郎氏は明治34年(1901)3月21日、養老町高田常磐町に生まれた。作曲家である。代表曲に、「おんな船頭歌」歌:三橋美智也、「男のブルース」歌:三船浩、「長良川旅情」歌:春日八郎などがある。
山口氏の関係で、養老町に三橋美智也や春日八郎が来た。春日八郎は、瓢箪ブギを歌った。
生涯で1000曲以上を作曲した。養老町名誉町民である。
山口俊郎氏は、生きているうちに大事にして欲しかった。山口氏の奥様は晴海さんといい、感じの良い人であった。
山口氏がまだ若い頃、養老小学校に体育館が出来た年にピアノを寄付してくださった。その時の写真がある。山口氏のことは、養老町の人にあまり知られていない。あれだけ立派な人なのに、養老町ではあまり評価されていないように思う。
山口氏を千歳楼へ呼んで一晩お泊めした時に、「小さい時から千歳楼の敷居を跨ぐのが僕の夢だった」と仰っていた。