八幡神社(船附)は、寛文5年(1665)に創建された。祭神は応神天皇(おうじんてんのう)、比咩神(ひめかみ)、神功皇后(じんぐうこうごう)である。
八幡神社では、10月の第一日曜日に例祭を行う。昔は祭には輪ノ内から訪れる人もあり、露店も出て大変賑わった。八幡神社には小祭はない。正月に左義長が行われる。
笠郷では、八幡神社が一番位の高い神社である為、太鼓を設置する櫓もこのあたりでは最も高い。祭では夜中の0時から太鼓を叩いているので、初めて祭を見たときには驚いた。
八幡神社は、船附の郷社である。神様に遠慮して境内をセメントで塗ってはいけないと言われたときもあった。
八幡神社(船附)の例祭では、一週間前に踊りのリハーサルを行う。
午前10時、社にて神事が行われる。氏子と港・中屋敷育成会役員が子ども神輿を持参して参列。
玉串奉奠は氏子総代、区長、神社会計、世話人、氏子中の順で行われる。神官は下笠の隼人神社にお願いしている。
神事終了後は社務所に詰めて踊りの準備をして、踊りまで過ごす。
午後3時頃、太鼓の準備を開始する。太鼓は神社所有のもの2張と六羽野、寺屋敷より1張づつ、計4張ある。
午後7時、祭り踊り(町指定文化財「船附民謡」)を奉納する。この日は試楽であり、翌日が本楽となる。
参加者は踊り保存会と子ども会(港・中屋敷、鼠ヶ森、村前東、六羽野、大割田・仲代、寺・元屋敷)による。今年より子ども会員も太鼓を叩くことになった。
踊りの順序はでんがらがし踊りと白川踊りをくり返し、最後にどじょう踊りを奉納する。このとき六羽野の太鼓を櫓の下に降ろす。(新しく音が良い太鼓であるため)
二日目の流れは、以下の通りである。
午前10時より、船附八幡神社境内から子ども神輿練りが始まる。主催は港・中屋敷子ども会であり、参加者は小中学生である。
各戸をまわり祝儀を頂くが、この祝儀は神社の会計に含まれるのではなく、子ども会の収入となる。子ども神輿の起源は定かではないが、昭和61年以前から行っていた。かつては子ども会で作ったダンボールの神輿であったが、木製の神輿を昭和61年に購入した。最近は少子化のため子どもだけでは神輿はつれないので、親がつることが多い。
午後7時から本楽を行う。また、踊りが終了次第子ども会員対象のくじ引きを行う。
今年より櫓が低くなり、約2m40cmとなった(昨年は約3m70cm)。櫓の切り下げはこれが2度目である。元々は5m程あり、神社本殿を見下ろす程の高さであった。
最近では、高い櫓を組むことが困難である。櫓の準備は主に氏子で行うが、現在の櫓を作った当時の大工4名に手伝ってもらっている。この大工も高齢となり、いつまで続けられるのか分からないので、今年から低くした。また、櫓の梯子を階段にした。これにより、子どもが太鼓を叩くことが可能となった。
以前は、青年団が準備をした。毎日の様に社務所に集まって、提灯の手入れや神輿の準備、笛の練習をしたが、時代の流れと共に無くなってしまった。平成5年頃に櫓から六羽野の太鼓を落として破損したため、新調した。
平成の初め頃までは、踊りの輪が三重にもなるくらい大勢で踊っていた。
一昔前までは、日付がかわる頃まで踊り続けたが、現在は9時半くらいには終了する。
太鼓は境内に向かって左から神社、寺屋敷、六羽野、神社の順番で並ぶ。
演奏については、保存会が小学校で教えているが、昔から聞いていたので自然と覚えたという子が多い。
戦前には神社所有の神輿があった。これを村の若い連中(青年団、消防団など)で担いだ。栗笠の神輿が船附の村まで練り歩いてくることがあり、喧嘩になったこともある。この神輿は現存しない。壊れたのか、壊されたのかは不明である。
神社所有の神輿が無くなってからは、中屋敷所有の神輿を青年団で担いだ。この神輿は元々船附のお大尽、谷家のものであったと言われている。こちらは中屋敷に保管されているのではないか。
日程を変更するまでは、参道に出店が多く出ていて、通れないくらいだった。
2日目は神社としての行事は特にないが、氏子は神社に詰めている。踊りの最後には抽選会があり、子どもが参加して賑わう。
神社の役員は3年で交代する。役員の決定は協議で決定する。

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表示位置は船附の八幡神社を示している。