田中道麿(たなか みちまろ)は、享保9年(1724)に養老町飯ノ木に生まれた、江戸時代中葉の国学者である。特に万葉集の研究家として知られる。天明4年(1784)没。
飯ノ木では毎年10月4日の田中道麿の命日に顕彰会で慰霊法要を執行している。区長が顕彰会の役員の一人になっている。10数年前までは滋賀に住む田中道麿にゆかりのある方が慰霊法要に参加していたが、現在は案内を出していない。
当日は広幡地区の山ロー易先生により田中道麿翁の功績を紹介する講話があるが、役員しか出席しないため知らない住民も多い。
顕彰碑のある公園はペタンクの遊び場になっているため、そこを使う人たちが定期的に掃除をしている。
田中道麿は生家が貧しかったため、尊敬に値しないとか、また、郷里のために何もしなかったと言われ、口ヶ島を始め地元の集落の人にとって当初はあまり評価されていなかった。昭和32年に顕彰碑を建てたが、それまで長い間建立予定地の地主に反対され、建てることができなかった。建立と同時に設立した顕彰会は町長以下、広幡区長など総勢10名から成り、ここ数年住民の道麿に対する認識が多少良くなってきているように感じている。
田中道麿の生誕地の碑はもとは今よりも西側にあった。生誕地の碑は本居宜長の五代目の孫が記したもので、本居宣長の研究者によって田中道麿が掘り起こされた。
田中道麿の顕彰碑は名古屋にもあったが戦後の混乱期にどこかに行ってしまって行方が分からない。そこに本居宣長に贈ったという句が二句書かれており、その句の内容については養老町の図書館で確認することができる。
飯ノ木の共同基地(無縁仏の一角)に田中家の墓があり、そこが一族の墓であると考えられている。田中道麿には子供がいたと養老郡史に書かれているが、本居宣長記念館では妻帯しなかったという説をとっている。ただ、顕彰碑の除幕式の時には田中道麿の関係者が出席し、出席した方の奥様が子孫ではないかと考えている。

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表示位置は田中道麿顕彰碑を示している。