兵役から帰った人の中には戦争犯罪人とされ、教壇には立てなかった人もいた。当時の教頭、大久保源吾氏に民主主義に関する本を薦められて読んだ。
民主主義となり、教員に適格検査が課せられた。郡役所で、南濃県事務所から派遣された課長が実施した。大久保源吾氏から軍隊式のお辞儀(15度に腰を曲げる)はせず、足を組んで話せと注意を受けた。合格は履歴書に記入する事が義務付けられていた。
当初は適格検査に受かっていないにも関わらず教壇に立っていると密告され、始末書を書かされた。
昭和20年代に、高田新制中学校には広幡、高田、養老の子供たちが通っていた。昭和21年は中学1年のみ義務制、2、3年は希望者のみが進学したが、進学は2~3割に過ぎなかった。
高田新制中学校ではそれまでの担任制で全教科を教えるのではなく、教科担任制となった。聞き取りを行った方は、体育と社会を担当された。
昭和22年4月からは新しく建てた校舎に小畑、多芸も含めて6力町村の子供が集まった。男女共学となった。県の教育委員会へアメリカの軍制官が派遣され、視察に来た。1クラスの人数(89名)が多すぎると指摘を受け、2年目から2組に分けた。
6カ町村の村の子が村ごとに分けることなく、一緒に編成されていた。
当時の教育内容は「神話の否定」(歴史を縄文時代から教えた)、「軍国主義に関することは一切教えない」というもので、アメリカからそのように指導を受けた。社会では新憲法や憲法第9条、男女同権について教えた。体育では男女同権を強調する為かフォークダンスをやる様に指導された。生徒が嫌がって大変だった。
始めは運動会でも勝敗を決めない考え方で、競争させる種目は無かったが、昭和20年代後半には各組対抗の競技(100m走、5000m走など)をやった。
英語教育が始まったが、話せる人がいなくて困った。
学校には当時お百姓さんの子供が多かったので農繁期休暇があった。戦後で男手が不足していたので、休みの日には生徒も教師も農作業をしていた。農繁期休暇は昭和20年頃は2週間だったが、10年後までに段々日にちが短くなって、やがて無くなった。
また、戦争のため女性の先生が多かった。但し、当時女性には教諭の資格が無かったため実際は助教諭の形で従事した。なお、教諭のことを昔は訓導(くんどう)といった。
先生方は軍隊からの支給の軍服、軍靴(編長靴・ヘンジョウカ)で授業をした。学校までは4km以上自転車で通った。口ヶ島の辺りは伊吹おろしが強かった。通学のための自転車のタイヤは中までゴムで、パンクはしないが大変重かった。烏江から通っている者には電車の定期券が支給されていた。
二宮金次郎の話は、教育勅語の内容を含むために学校には二宮像が置かれなくなった。教育勅語は明治天皇が草案し、各校に配られていた。かつて教頭が教育勅語を逆さまに持っていったら、それを受け取った校長が(向きを変えるのがはばかられた為)逆さまのままで勅語を読み上げたことがある。小学4年には児童が自ら読み、5年には書いていた。現在は学校の校長が教育勅語を教えたら法律違反になる。
図書館の昔の本は全て燃やされた。
宿直は元々は天皇の御影を納めていた奉安殿を守るためにあった。365日、毎晩誰かが常駐した。広幡の現農協の当たりに奉安殿があった。
教育委員会の組合をアメリカの指導により作った。岐阜は組合が強かった。
体育連盟の委員長としての活動が評価され、誘われて教職員組合養老郡執行委員長となった。期間は1年とちょっと。センジュウ(専従か)といわれ、教壇には立たずに組合の活動だけをしていた。
月給は組合費の中から教師と同額をもらっていたが、後年教頭、校長になる時に組合にいたことがマイナス要素になった。
教諭の勤務状況を勤務評定として教育委員会に出した。優秀から不可までの5段階に分けられる。組合運動に参加する人には不可など、低い評価がつけられて月給が下がった。
距離的に近かったため岩道の子が笠郷中学校に行っていたこともある。笠郷中学校は現在の笠郷小学校の位置にあったが、昭和55年に東部中学校と合併した。
時中、多良中、牧中、高中、養南中、笠郷中の6校を回る中学生の縦走駅伝を行った。
第二次世界大戦当時の日本国民の義務は、 小学校6年間の教育、20歳で徴兵検査、社会人としての納税、の3点だった。
昭和16年から、英語の勉強、野球、背広を着ること、の3点は禁止された。

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表示位置は旧笠郷中学校、現笠郷小学校を示している。