宇田の五社神社の位置は昔から変わらないが、水害により集落のみが現在地に移動している。宇田村の元の位置は五社神社より南東にあった。
A氏の先祖が修験者で垂井町の南宮大社とつながりがあった。宇田の五社神社は南宮大社に似た造りをしている。また、五社神社境内にあった大善院といわれる建物で修行をする修験衆が五社神社のお守りをしていた。
宇田の五社神社は関ヶ原の合戦で焼失したが、五社神社の神領はかなり大きく、飯田の西の方にも土地を持っていた。しかし、戦時中に売却された。五社神社の周りには塚が多数あった。
百茎根(ももくきね)という文書に宇田の五社神社の記述があり、他にも御除地(ごじょち)の記載がある文書を総代が保管している。
北野神社と五社神社の祭りは宇田の北屋敷、市場、平木、北野、仁位で祭りを行っていたが、昭和35年、仁位が五社神社の氏子から外れて仁位地内の八幡神社と神明神社のみを祀るようになった。それ以前までは仁位の住民は村の太鼓を持って五社神社の祭りへ行った。
10月5日には五社神社の秋の例大祭があり、雅楽・巫女舞が奉納される。
五社神社とは別に、仁位は八幡神社、北野は北野神社を氏神として祀っている。
五社神社の秋の例大祭の雅楽と巫女舞の奉納は、戦時中は自粛されており昭和20年代後半に雅楽が復活し、昭和35年から巫女舞いも復活させ2010年現在も地元の楽人による奏楽や舞が奉納される。資料として祭事行事一覧、巫女舞の所作の図解がある。また大正の頃までは村人が火薬を調合し花火を作り、五社神社の祭で花火大会をした。花火の火薬などを調合する割合等を記した帳面があったが、現在は不明である。
五社神社は神楽車山を所有していたらしく、獅子舞の頭や人形だけが社務所に残っているが、実際に奉納されていたという記憶のある人はいない。
6月28日前後の第3または第4日曜日には、五社神社の一番東の社にあたる御鍬神社の祭典が行われる。
五社神社に合祀されている5つの社は合祀以前は別々の場所にあったらしいが、どこに置かれていたのかや、誰が管理していたかは不明である。
五社神社を郷社にする為の申請文書等の写しが原稿用紙40~50枚残っている。
杉本、角田は五社神社とは関係がなく、氏神は八幡神社がある為、五社神社には参らない。
宇田の五社神社例祭の準備には2~3日を要する。
1960年頃から朝と夜に巫女舞と雅楽が奉納されている。巫女は小学5~6年の女子4人にお願いして務めてもらう。朝の神事では巫女、楽人とも正装を纏うが、夜の神事では楽人は正装せず、神官さんも呼ばない。
伝統文化を伝え、日本人としての心を呼びもどすために国旗を揚げてほしいと思っている。
五柱の神様が合祀されているが、5組の瀬古が回り番で世話をしている(現在は4組)ため、伝承が伝わらない部分もあり、由緒等は定かではない。
日吉遺跡の西側にはもと五社神社があった。このあたりには「本堂」や「馬場」という字名があり、中世には寺院や武士等の馬の世話をする場所があったのではないか。
神社の棟札は総代が所有しているのではないか。
神社の参道には氏子の戸数分の提灯が灯される。拝殿の中に瀬古名の書かれた提灯(瀬古に1つ)を神様に向け飾る。他に境内に紅灯籠が放射状に飾られる(2010年は雨の為境内提灯はなし)。
社殿は関ヶ原の合戦の時に戦火により焼失し、A氏の大爺さんの頃にも左義長の飛び火を受けて消失している。そのため、五社神社では左義長が行われなくなったが、各瀬古ごとで行うようになった。
五社神社の社殿は、大垣のサワロク(漢字表記不明)の方が総代の家に泊まり込みで建てられた。
押越の八幡神社は五社神社の建築を真似て建てられている。そのためか、押越の八幡神社の祭りには、五社神社の雅楽会が雅楽の奉納を行う。
獅子頭や「車山」人形(「」内で一文字)が保管されているが、実際に使われていた話を聞いたことや、使う所を見た記憶はない。そのまま放置できないので、平成2年に箱を作り、それに納めて保存している。

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表示位置は宇田の五社神社を示している。