安福彦七氏は明治43年(1910)7月13日に生まれ、30歳頃に室原へ養子にみえた。平成16年(2004)没。小中学校の校長を歴任され、昭和40年代半ばに60歳で退職後、昭和47年(1972)には日吉公民館初代館長に就任され、養老町文化財保護協会会長も務められた。彦七氏は室原文化財保存会長として室原の曵車山3台の修理に尽力された。彦七氏の先代の安福慶作氏は、家業の薬屋の商売よりも郷土史の研究や、文学や歌を詠むことを大変好んでいた。彦七氏は安福家に残された古文書を整理することを皮切りに郷土史について研究を始められた。彦七氏の郷土史研究は大変精緻なものであるが、室原出生ではないという引け目があったからこそ徹底的に調べ尽くしたのであろう。ご子息は進学の為、東京に下宿されていたので彦七氏に頼まれた資料を国会図書館などで探すこともあった。彦七氏は郷土史に関する調査を、まずは大垣市図書館や岐阜県図書館、国会図書館などの外部から資料を探し、自宅や地元に残る文書や史料と照会していく調査方法を取られていた。
昭和30年代半ば頃、誰の墓かは不明であるが重要な墓石があると先代の慶作氏が、彦七氏に伝えていた。その後、彦七氏が草むらのなかに倒れて苔だらけになっているその墓石を洗い、3年ほどの時間をかけて大垣市図書館などで調べた結果、春圃の墓であることが判明した。時を同じくして漢方学の名医であった北尾春圃について調査されていた三重県四日市市の漢方医である安井廣迪氏が訪ねて来られて、彦七氏と春圃について話が一致し共に考証に取り組んだ。彦七氏はこんな立派な医者が室原から輩出されていることを地元の人は誰も知らないのは嘆かわしいと、北尾春圃のお墓を整備された。