名医、北尾春圃(きたおしゅんぽ)は万治2年(1659)に不破郡室原村の医家に生まれた。彼は青年の頃に発奮して医学を学び、大変成績も良く、大成して診察を請う者が次第に増え、春圃の名声は大いに上がった。大垣藩、戸田候は医家春圃に20人の扶持を与えて大垣船町、全昌寺のあたりに住まわせた。
彼が知られた最も大きなチャンスは、正徳元年(1711)6代将軍徳川家宣の就位を賀する為、朝鮮通信使節に随行した医官、奇斗文(きとうぶん)と春圃の会談が行われたときであった。全昌寺にて深夜まで及ぶ問答をし、これを「桑韓医談」と題して正徳3年(1713)に刊行した。使節は一行500余名の大集団で、一行が大垣に来た時、春圃は長男春竹、以下春倫、道仙を連れて、近江の儒者であり使節団の通訳を務めた雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)の紹介によって会談することができた。この時、通信使の奇斗文は会談の内容を絶賛して「東海に天民あり」と春圃のことを激賞したと伝えられている。春圃は名医で学者でもあったので著書も多く、11種に及ぶ書物を出版した。
安福彦七氏の著書「室原の歴史」P.76には文化13年(1815)12月に記された文書に百姓代として北尾春圃の名が「春甫」と記されていたとある。