室原村の村政は江戸時代初期は史料に乏しいのではっきりしないが、文化3年(1806)以後の古文書には、室原村を北組と南組とに分けて庄屋と三役を両方に置き、村政を行っていた。ただ大垣役所に出す書類等は統べて一本として出していた。
安政4年(1857)の資料には南組庄屋安福弥七とある。また天保5年(1834)に安福弥六(彦七氏先祖)は百姓代とあり、これらの資料によると安福彦七家の家系は江戸時代中期頃からは室原村南組の庄屋の家系であったと思う。また北組の庄屋の家系は鈴木治左衛門家であっただろう。
明治17年(1884)に安福家の先祖である慶作氏が室原地内の所有地に4本の道標を建てた。そのうちの2本が石柱で、北浦に建てられた2本は木柱であった為、木柱は消滅した。残された資料によると、北浦の木標のうち1本は高さが2尺5寸あり、「右 谷汲・左 をさ ひらを」と記され、表佐道と谷汲道の分岐に建てられた。この道標から東に進んだ地点に、もう一本木標があり、高さは2尺5寸で「左 谷汲」と記され、谷汲道と赤坂道の分岐に建てられた。
茶園原には、高さ4尺、巾6寸の石標に「右 大垣・左 谷汲」と刻まれ、大垣道と高田養老道の分岐に建てられた、現在は安福家の屋敷内に移動され保存されている。西海道には、高さ2尺5寸、巾4寸の石標に「右 南宮・左 とき たら」と刻まれ、栗原南宮道と多良とき道への分岐点に建てられた。この石標は大正元年から行われた耕地整理の際に紛失したと思われる。このとき、安福慶作氏は整理組合の副会長を務め、組合長は鈴木治左衛門氏であった。またこの耕地整理で地内各所にあった7ヶ所の墓が福源寺境内に移転された。旧字名を廃して、住吉、小栗栖、新宮の3ヶ所に整理して地番を付けた。堤外の地は整理しなかった。