昔は高田祭りで車山を所有している町は旦那衆で、戦後までは氏子が車山を曳くことはなかった。下高田の方に車山の曳き手を集める役割をお願いしていた。下高田、島田の農家の人が主体で伝によって集められており、毎年ほぼ決まった顔ぶれであった。西町では15人か20人ほどで車山を曳いていた。最近では最低20人いないと車山が曳けないという声も聞くが、かつての砂利道に比べれば舗装もされており、15人ほどで充分曳けるはずである。車山を曳く為に集められた人を「車山曳き人足(やまひきにんそく)」と呼んでいた。昭和の終わり頃に曳き手の数も減少し、1人あたり1万~1万5千円という礼金の調達も困難になってきたため、町内の者で車山を曳くようになった。西町、中・東町は車山曳き人足が車山を曳き、下河原は元より農家関係が多く居住していたため自分たちで車山を曳いていた。
車山を所有している西町、中・東町、下川原、常盤町以外の町の子供は車山に触らせてもらえなかった。車山を所有している町の子供はその親が車山の旦那方にあたる為自分の町の車山には触れたが、他町内の車山に触ることは禁じられていた。昔は、地ならしや試楽で祭りの前々日から車山を動かしており、その時に町内の子供は特別に車山に乗せてもらえた。平成10年代半ばに高田全体の祭りとして執り行う為に、町報や新聞等で引き手募集の呼びかけをしたが、ほとんど集まらなかった。