昭和53年(1978)7月21日、高田の平成記念公園に山口俊郎先生顕彰碑が建立された。
そして翌年の昭和54年11月12日には旧山口会館が町有地を借りて山口俊郎氏によって建てられた。旧山口会館は国際学習会館(高田409-4)の場所に建てられており、旧山口会館が建つ以前は地域の公民館のような建物があった。旧山口会館は雰囲気の良い建物であった。外壁には音符が描かれており、1階は山口俊郎氏の愛蔵のレコード120枚とステレオ1台を納めた展示室、2階は小綺麗な和室の広間があった。旧山口会館では高田音楽学校が開かれており、山口俊郎氏の弟子であり、養老町役場を定年退職した七里智次氏が校長であった。七里智次氏は役場に勤務するかたわらで作曲活動を行っており、自身の作品もかなりあると思う。芸名は七里洋之であった。七里智次(洋之)氏作曲の楽曲レコードなども山口会館に保管されているのではないか。七里智次氏作曲の消防の行進曲があったかもしれない。かつて横町と呼ばれていた常盤町で骨董屋を営んでいた西脇氏が作曲家を志す七里智次氏を、養老町高田常盤町出身で作曲家として東京で活躍されていた山口俊郎氏に指導してもらえるよう紹介した。七里智次氏は役場でも面倒見が良く、最終的に消防長にまでなった。旧山口会館は山口俊郎氏と音楽のための場として山口俊郎氏亡き後、七里智次氏によって活用されていた。
七里智次氏は旧山口会館設立に尽力した影の立役者ではないだろうか。山口俊郎氏は晩年、七里氏や地元に懇意にされた恩を感じ、東京と養老を行き来し音楽活動をされていた。
また昭和53年(1978)4月に身寄りのない山口俊郎氏が津田町長に、自分が死んだ後のレコード印税を町の社会福祉事業に役立てて欲しいと遺言を託し、昭和56年(1981)11月25日病気の為80才で亡くなった。その後町長がどれくらいの印税が入るものかと翌年1年間様子を見たところ、約80万円の収入があり、今後も当分同額程度の収入が予想されるため基金として活用することになった。昭和58年(1983)に町福祉施設設備等基金条例として印税収入を積み立てることになった。その後、平成15年(2003)には山口俊郎基金として独立させ運用されることになった。
山口俊郎先生顕彰会が昭和58年(1983)に発足した。会の発起人は町長、議長、高田区長会長である。印税を福祉に活かしたいという山口先生の遺言から養老町役場厚生課(現在の福祉課)が顕彰会設立の担当となった。この頃七里氏は既に役場を退職されており、町の職員としては関与されておらず、高田区長会長が顕彰会長となっている。山口俊郎氏の葬儀は専念寺によって勤められ、現在も専念寺が法要等を勤められている。
平成16年(2004)1月、現在地(高田18-1)に新しく山口会館が完成した。

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表示位置は山口会館を示している。