養老町大巻高柳出身の山田貞策(やまだていさく)は私財を投じて福島県相馬郡八沢浦(やざわうら)の干拓事業を進め、荒地を美田化した。八沢浦の干拓事業は山田貞策の人生において一大事業であった。同時期山田貞策は干拓事業に加え地元養老町大巻の水害を食い止める為に尽力しており、東奔西走していた。
山田貞策は福島県方面へ出向くことがあると相馬へ必ず立ち寄った。原ノ町駅までは特急が運行しており、駅からは当時にしては珍しく運転免許を取得していた貞策氏のご子息が車で貞策を迎えにきていた。
八沢浦の干拓地には山田貞策の偉業を称え、貞策の名にちなんで名付けられた山田神社が建立された。
山田神社は東日本大震災による津波で流失し、山田神社に隣接していた資料館も跡形もなく押し流されてしまった。津波の被害を受けた山田神社周辺はひどい状況であったが、熊本県立球磨工業高等学校の生徒が制作した鳥居と仮社殿が寄贈され、再興された。学校側が寄付を募って再建の費用を負担された。再建の儀式は多くの神官さんにより盛大に執り行われ、その様子は新聞記事にもなった。
表示位置は山田神社を示している。