昭和30年代から昭和40年代(1955~1974)は養老町の花柳界が大変賑わっていた。
昭和42、3年(1967、68)頃に養老町の花柳界に入られたA氏によると、30分単位でお座敷をつとめていて、芸妓さんの手取りは30分で200円程だった。ただし宴会中にもらったご祝儀は全部芸妓さんのものだった。
お給金は安かったが、仕事用の着物や美容院代の他には、養老町内にお金を使うところはあまりなかった。靴などにしても養老町に欲しいような靴は売っていなかったし、名古屋まで行こうと思っても月に一回の貴重な休みはほとんど寝て過ごし、名古屋まで買いに行く気力がなかった。
お正月にはいつも稲穂のかんざしをつけていた。稲穂のかんざしは縁起物で、稲穂を食べて全部なくなると縁起がいいという話を聞いたので、無理やりお客さんにかんざしの稲穂をちぎってもらったりしていた。稲穂のかんざしには、 成功している時こそ、謙虚に生きていきなさいという戒めの意味があると聞いたことがある。かんざしに使う稲穂もなかなか手に入らなくなっていたので、美容院さんにあらかじめ頼んでおいた。美容院は国際美容院さん(本町通り)、岡本美容院さん(東町)、ルビー美容院さん(本町通り)などがあった。
三味線の芸事などは、検番が費用を払って先生に何日か来てもらって、お稽古をしていた。
若い頃は、毎日二日酔いでふらふらになって行っているので、芸事をなかなか覚えられなかった。たたき起こされてお稽古に行ったこともある。他にも先生から踊りや民謡の個人レッスンを受けたり、岐阜から藤間流(ふじまりゅう)の踊りの先生がみえたりしていた。
お座敷には必ず中堅どころと若手の芸妓さんが組になって入った。最初にまだ踊りの下手な若手が度胸付けの意味もあって踊らさせてもらい、その後踊りの上手な中堅が踊っていた。
お客さんに食べ物をすすめられても、絶対に食べてはいけなかったが、お酒はゆるされていた。お酒が入った方が料理がたくさん出て料理屋的にもありがたかったからである。
三味線のお姐さんの権限はとても強かった。芸妓になりたての最初の1、2年はお客様よりもお姐さん達の方が怖くて、お客様の機嫌よりもお姐さんの顔色を見て仕事をしていた。自分に何か特技があっても、まず初めはとにかく下働きで、お酒がなくなってないか、料理は足りているか、という事ばかりを気にしていた。客あしらいが悪かったり、気が利かないと、お姐さん達に怒られたり注意されたりした。
芸妓さんのことを俗に「左褄(ひだりづま)」という。着物の裾の両端の部分を「褄」といい、芸妓さんや舞妓、花嫁が、長く裾を引いた着物を着る時、歩く時に引きずらないように、衿下の部分を持ち上げることを褄をとるという。芸妓さんは、花魁や花嫁のように右手ではなく左手で着物の褄を取るので「左褄」と呼ばれることもあった。昔の芸妓さんはおひきずりの様な長い着物を着ていたが、昭和40年代頃はひきずるような着物を着たことがないので、褄をとるという事はなかった。仕草的にも右手でやるより不器用な左手で取った方がきれいにみえるのだと思う。
先輩のお姐さん達の中にはずっと生涯芸妓としてやっていくという方も見えた。
芸妓さんを辞める理由は、やはり恋愛関係や結婚が多かったと思う。
芸妓さんを辞めた後は、外でお客様に偶然お会いしても、気安く声を掛けてはいけなかった。

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検番とは、料理屋や置屋などの業者がつくる組合のことである。芸妓の斡旋や料金の決済などの事務処理を行っていた。表示位置は国際美容院がある場所を示している。