伊藤重松(いとうしげまつ)氏は養老町下笠三ツ屋出身の篤農家である。
戦争で食糧難になると硫安(りゅうあん、硫酸アンモニウム)が少量ながら配給された。その硫安をどのように有効に使ったら米がたくさん取れるかという研究があちこちでなされた。笠郷地区の篤農家(とくのうか)の双璧は、三ツ屋の重松氏と上之郷の川口銀蔵(かわぐちぎんぞう)氏であった。普段二人とも行き来はないがお互いに意識はしていたようだ。
ライバル関係だった二人の農法はぜんぜん違っていた。
海津はもちろん三重県あたりからの広範囲にわたって農業関係者は重松氏のところに研究に来ていた。
重松氏の農法は最初土地の実力を試すために無肥料で苗を植えて、ある程度成果を見た。その後、1本の苗からたくさん増やした苗を、実力のある田には少し、実力のない田には多めに与えて様子を見た。それからある程度分蘖(ぶんげつ)させて、穂の出る前に追肥を補った。そうすることで力葉(ちからば)という、最後に出る葉が大きくなって実の方に入らない。その結果僅かの肥料で米の多収穫が可能になった。
重松氏は息子が農業をやるのに対して絶対にやり方を命令するようなことはなかった。自分が知識を吸収するのに貪欲で視察に来た方の後をついて回ってあれこれ聞いているくらいだった。
当時多くの農業の研究者が来たにも関わらず、重松氏は自身の研究成果をまとめた文献は残していない。全部口伝えだった。重松氏の教え子が稲の標本をたくさん集めてみえたが水害で全部流れてしまった。
農業の研究者といっても重松氏のところに来た方たちはみな普通の農家の人々だった。
水害の後など、自分の田んぼがどこか分からなくなってしまう人がいたが、重松氏は自分が指導した田んぼは必ず覚えているのですぐ見つけ出した。それぐらい他の田んぼとは違う、と言っていた。

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表示位置は伊藤重松顕彰碑を示している。