A氏は昭和17(1942)年頃中学を卒業し、同年4月幹部候補生に志願した。お父様に報告すると、幹部候補生は特攻隊になると言われた。同年11月に特攻隊になる予定であった。終戦間際の昭和19(1944)年頃は、生年月日順に徴兵されたと聞いた。A氏は11月生まれなので徴兵はまだだった。
旧制中学を卒業していれば、無試験で教員になれた。船附の先生から、他の先生が出征して人手が足りないので、出征するまでの間、来てほしいと頼まれた。1クラス70人で、疎開児童も来ていた。
終戦前日の8月14日に、明日集まりがあるので来てほしいと言われ、翌日学校へ行ったが、その日に終戦した。
A氏は昭和20(1945)年8月15日に教員になった。
9月からは、教科書の墨塗りをした。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)のガスタフソン氏がジープに乗って学校訪問に来た。氏のことを「がっさん」と呼んでいた。
ガスタフソン氏の訪問に校長が恐々として手榴弾などをすべて隠した。笠郷小学校の二階の廊下、階段に並んでいた日露戦争の戦利品も隠した。日露戦争の英雄、東郷平八郎の絵も隠したと聞いた。
忠魂碑も一時埋め隠しており、終戦から25年後に掘り返して元に戻した。違反行為であるため、誰が何処に隠していたかは知られていない。家一軒をそのままひっぱってしまう達人であったとび職人がやったとも言われていたが不明である。よく見ると、台石と碑が違うように思う。その当時、学校には手榴弾、木銃、竹槍などがたくさんあり、処分するのに苦労した。
A氏が今尾で教員をしていた昭和21(1946)年頃に、軍政府からグローブとバットをもらい、野球を始めた。オート三輪に選手を乗せて試合に行った。勝って帰ると、子どもたちにカレーライスを食べさせた。優勝した時は、優勝旗を持って今尾の町を歩くと小銭がもらえた。昭和22、23(1947、1948)年頃のことである。今尾は今の高須町が野球のライバルだった。池辺小学校からも挑戦があり29対0で勝ったことがある。駒野の城山小学校との決勝戦に1対0で負けた。
昭和22(1947)年当時、新聞紙を帳面代わりに使った。鋏で切り、糸で綴じた。
その後、憲法発布の記念があり、今尾は3日間位祭り騒ぎだった。

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笠郷村の忠魂碑は、終戦時、一時期土をかぶせて隠してあった。表示位置は笠郷の忠魂碑を示している。